ISIS(イスラム国)による後藤健二さん、湯川陽菜さん人質事件は、残酷な結果をむかえた。
ここで感情的になっては、テロリストの思う壺なので、冷静に今後の「テロと戦場ジャーナリズム」について考えなければならない。
この問題について、現在の国内の議論は、
「人命尊重!」「でも、ジャーナリズムも大事!」
といった矛盾を抱えた状態だと思う。
いわゆる「自己責任論」も国内の議論を混乱させている要因だが、「自己責任」の自負も無しに危険地域で活動しているジャーナリストは居ないだろうから議論の余地はないと考える。(逆に、「他者に責任を移転したジャーナリズム」とは何か? 企業あるいは政府に所属しながら取材をする者を指すことになるだろうか? そうした人は組織からの許可が下りない為、ISISのテリトリーには入らない)
■リスクとジャーナリズムのバランス
ここで問題を整理したい。ジャーナリストが抱えるリスクは、自身の生命だけでなく、テロリストに交渉カードを与えてしまうという国際的な影響もある。その為、「リスク(人命を含む)」と「ジャーナリズム」を天秤にかけ、場合分けをしながら今後の方針を考えてみたい。
A.『リスク(人命) > ジャーナリズム』の場合
リスクを回避する。すなわち、
- 危険地域へ近づくことをジャーナリストも含め一切禁止する。
- その上で、海外ジャーナリストの記事から、それなりの情報を得ることで納得する。
- 日本人主体で情報収集する意義があるとしても、例えばトルコのような危険地域の近隣国のメディアと提携して取材を委託する等も考えられる。
B.『リスク(人命) < ジャーナリズム』の場合
海外の力に頼ることなく「日本人自身が現地に入って取材すること」に意義があるとするならば、選択肢は大きく分けて2つだろう。
海外の力に頼ることなく「日本人自身が現地に入って取材すること」に意義があるとするならば、選択肢は大きく分けて2つだろう。
①リスクを許容する
すなわち、今まで通りジャーナリスト自身の責任で取材を続ける。ジャーナリストが人質になった場合、日本政府は人質解放を強く訴えはするが、一切交渉には応じない。
②リスクを低減する方法を探り、取材方法を見直す
例えば、取材は「現地の正規軍が帯同する場合に限る」といったことが考えられる。あるいは、ジャーナリスト団体(例えば、国境なき記者団)が共同で傭兵を雇って取材に帯同させることも考えられる。(取材活動の自由度が低下するデメリットはある)
もっと良い方法はあるだろう。
日本の世論は人命とジャーナリズムのどちらを選択するのだろうか。今のところ、私の左耳には、ジャーナリズムを崇拝する声が大音量で聴こえている。
もっと良い方法はあるだろう。
日本の世論は人命とジャーナリズムのどちらを選択するのだろうか。今のところ、私の左耳には、ジャーナリズムを崇拝する声が大音量で聴こえている。
■感情ではなく戦略的な視座が必要
生存問題を解決してしまった先進国の人々は、大した努力をしなくても生きることはできる。そのため、生命の危機に瀕した時に発せられる眩い生存エネルギーを感じることができなくなり、「生きる意味」に悩む。
そんな中で、生存本能を掻き立てる方法の一つとして、「内戦、テロ、飢餓などで生存問題が未解決の地域に目が向ける」という行動が選択される場合がある。さらに、義憤に駆られ、自ら現地に行ってより大きなエネルギーを得たいと思う人も現れる。
複雑なことに、危険な場所に向かう人々の無意識的な動機は自己の「生存本能の再確認」であるのに、それが、意識的な動機としての「正義感」という利他的感情で覆われてしまうのだ。(私見だが、リベラル系の人はこの種の正義感に感化されやすい)
全てのジャーナリストがこのような自己の「危機感受志向」でシリアに向かっている訳ではないと思う。本当に、合理的でクリアな思考で、「行くべき」と判断している人もいるだろう。
「危機感受志向」自体も、ジャーナリストも批判するつもりは一切ない。その上で、考えるべきは、戦略的な視座だ。
「危機感受志向」自体も、ジャーナリストも批判するつもりは一切ない。その上で、考えるべきは、戦略的な視座だ。
テロリストも馬鹿ではないので、常に資金を得る方法や、捕まった仲間を取り返す方法、自らを示威する広報手段を戦略的に考えている。そんな時に、自分のテリトリーに無防備な外国人ジャーナリストがやってきたら、正に「鴨が葱を背負って来た」状態である。そうして、一テロリストが国際社会を揺るがす「交渉カード」を手に入れる。
ジャーナリスト自身が「自己責任で行く」と言っても、一たびテロリストの人質になってしまえば、日本政府や国民は大きく揺さぶられることになり、他国にまでそれが波及する。テロリストが常識を超えた方法で、交渉を図ることも念頭に入れる必要がある。自身の意思とは無関係に、テロリストに手を貸すことになってしまうのだ。
(言いたくないけれど、テロリストの残虐性がエスカレートしていった場合、生きたまま人質の身体を少しずつ損傷させることで、こちらに揺さぶりをかけてくることも考えられる。そのとき、日本政府や国民は正気を保って居られるだろうか……)
(言いたくないけれど、テロリストの残虐性がエスカレートしていった場合、生きたまま人質の身体を少しずつ損傷させることで、こちらに揺さぶりをかけてくることも考えられる。そのとき、日本政府や国民は正気を保って居られるだろうか……)
■ジャーナリストが自らの価値を示す時
だから、ジャーナリスト側も「義憤」ではなく、「戦略的」に考える必要がある。
自らの動機を改めて見つめ直し、ジャーナリズムの生み出す価値を維持しつつ、自身がテロリストの交渉カードになってしまうリスクをどのように低減するのかを考える努力をしなければならない。(現在もある程度考慮しているだろうが、何らかのブレイクスルーが必要だろう)
ジャーナリストは決して利己的な感情で現地に行くわけではなく、理性的かつ高い目的意識をもって取材を行っている。本人はそのつもりでも、納得できない人が少なからず存在することも事実。ジャーナリスト自身が自らの価値を明確に示すべき時がやって来たのかもしれない。
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