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2011年3月6日日曜日

飛騨の妖怪『両面宿儺』に関する個人的推論に基づく奇説 ~悪魔主義③~

悪魔主義シリーズ第3回は、日本書紀に登場する『両面宿儺』に関してです。

両面宿儺とは、不思議な存在である。
日本書紀に依れば、彼は二人の人間を背中合わせに融合させたような異形の姿だったという。顔二つ、腕が前後一対の四本、足はそれぞれに合わさっていたため二本だったが前後両方に曲がった。手には弓矢、剣を持っている。動きは俊敏で怪力とされる。こう聞くと明らかに妖怪である。

ところで、両面宿儺は優れた指揮官であり、自身も武術に長けていたいたそうだ。
更に、飛騨国は古代から建築・大工技術が発達しており、彼も優秀な技術者であったという説もある。
更に更に、彼が統治する飛騨国は常に豊作に恵まれていたらしく、日照りのときは雨を呼び、冷害が起こると口から炎を吐いたと言い伝えられているが、現実的には彼が優れた農耕技術をもっており田畑を守っていたと考えられる。

こうした情報を併せて見えてきた両面宿儺の正体は、妖怪などではなく、多彩な能力を発揮し、縦横無尽に働いて飛騨国を守った善き王だ。
事実として、地元では現代でも「宿儺さん」との愛称で慕われ、飛騨国、美濃国の多くの寺で信仰の対象となっている。

何よりも気になるのは、日本書紀における彼の姿に関する奇怪な記述である。
双子の王であったという説、彼の八面六臂の活躍が象徴的に表現された姿であるという説があり、日本書紀の編纂者の恣意性により不気味な妖怪として民衆に伝えられたというのが現実的と言えるかもしれない。

ただ、悪魔性を帯びさせるにしても中途半端な姿で表現され、妙に詳細な特徴まで記述されている点からして、彼は本当に記述通りの姿だったのではないだろうか。即ち、彼はシャム双生児だったのである。しかし、常識的に考えて、古代社会において奇形は許容されるべくもなく、産まれた瞬間に殺されていただろう。

個人的推論ではあるが、彼が奇形でありながらカリスマ的存在となったのは、元々ある程度権力をもっていた親族が、彼を世に送り出す前に、奇形の姿をもつ神の登場するフィクションを創り、飛騨国に普及させた為ではないだろうか。そして、周到に地盤を固めた上で、神話の世界から地上へと神性を帯びながら降臨するような演出の下で、満を持して両面宿儺が現れたのである。
これが事実であれば、奇形の子が産まれた瞬間に、直ぐには殺さずに、彼の非現実性を巧妙に利用した一族の権力を維持する為の筋書き(神話)を発案し、実際にプロデュースした者も大したものである。

両面宿儺が優れた戦士であったことに関しては、彼が奇形の体を巧みに操っていた為だと推測する。脳は身体を道具として認識する。別段、規格通りの身体でなくとも、神経が通っていて、物理的に動けないような構造になっていなければ、脳は奇形の体に適応する。(サイボーグ技術が黎明を迎え、徐々に研究が進んでいるが、訓練次第で人間が機械の体を自分の体の様に扱えるようになることは確認されている)
子供の頃から武道の訓練を受け、次第に隙の無い360°の視野、四本の腕、予測不可能な足捌きを活かした自己流の武術を体得していったことが想像される。
(奇形の人がその特徴的な身体を活かして、常人を超えた能力を発揮したという事例は未だ聞いた事はないが……)



余談だが、両面宿儺が飛騨国に仏教を伝えたという伝承もあるが、彼の生きた仁徳天皇(在位:西暦394~427年)の時代は、仏教が日本に伝わった年(西暦552年)の100年以上前の話である。
更に余談だが、奇形の子が殺されなかった要因が他にもあると考えている。これも個人的推論に基づく奇説だが、両面宿儺の発祥の地と思われる丹生川町は、その名の通り「丹=硫化水銀」が産出する土地であったのではないか。
硫化水銀自体は安定した物質で、毒性は極めて低く、寧ろ薬用として珍重されるものだ。一方、古代中国では水銀が不老不死の効用があると信じられており、錬丹術により硫化水銀から丹薬を生成し、それを摂取した秦の始皇帝や多数の権力者が水銀中毒で怪死したということもあった。
水銀の不老不死の効用についての迷信は日本にも伝来されており、飛騨国の権力者も丹薬を摂取していたのではないかと推測する。そのように仮定すると、当時の飛騨国で奇形児はそれほど珍しくなかったのかもしれない。
そうした背景が有りつつ、如何せん山奥の小国なので、奇形を許容するような特殊な文化が発達し、奇形が社会の中に溶け込んでいたのではないか……というのは考え過ぎかな。


2011年2月28日月曜日

日本と悪魔 ~悪魔主義②~



今回は日本における悪の存在についてです。

1.日本と悪魔
キリスト教伝来以前の日本には「悪魔」の概念は存在しない。
日本神話において、それに近い概念があるとすれば、「暴虐(ちはや)ふる悪しき物神」として「国津神(くにつかみ)」が、初期の地上を跋扈していたという。そこへ、「天津神(あまつかみ)」がやって来て、悪しき者を追い払ったという。
これは、現在の日本人の祖先である渡来人が、日本の先住民である縄文人を制圧し、侵略した事実を、朝廷や古事記と日本書紀の編纂者が正当化しようとして描いたものだったのである。
初期の帝たちは、東国への侵攻を続けた。代表的な例として、天皇への恭順を拒み反乱を起こした『悪路王』は桓武天皇の勅命を受けた坂上田村麻呂に鎮圧され、飛騨地方を独自に統治していた『両面宿儺(りょうめんすくな)※』は仁徳天皇の差し向けた武振熊命に打ち破られている。
(※両面宿儺はなかなか面白い人物なので、後日取り上げる)

2.妖怪と鬼
こうして朝廷勢力(天津神)に悪しき者として追われたものたちは、山中深くや海の向こうへ逃げ込み、平地に暮らす人々が日常的には立ち入らない場所で暮らすこととなった。ところが、当然のことながら、非平地民と平地民が接触するという事態が時折発生し、彼らは平地民にとっての「非日常の存在」すなわち「物の怪」として認識されるようになる。
当初、「物の怪」は気配のようなもの、あるいは普通の人間と変わらぬ姿として描写されたが、時を経るごとに怪物化した。抽象概念として存在していた物の怪を「鬼」や「妖怪」として具象的に描き、世に広めるのに貢献したのは、江戸時代の絵師、鳥山石燕(1712~88年)である。
鳥山石燕 ウィキペディア