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2015年2月11日水曜日

本当はテロと相容れないイスラム教 ~宗教とテロを再考する~

 真っ当なイスラム教徒はテロとイスラム教は関係ないと訴える。
 確かにそうだなと思いつつ、ちゃんと考えたことがなかった為、私なりに整理してみた。
  

テロの根源にあるもの
 テロが起こる条件は、そもそも何だろうか。 大きくは2つあると思う。

1.無政府状態(政府があっても正規軍が脆弱)
2.社会への不満(貧困、不平等、失業、等)


 厳しい現実を直視できないままもがいているうちに、有り余るエネルギーやネガティブな感情をぶつける方法を模索する。そんな時、生き生きとした活動的な同世代の若者と出会う。彼と意気投合し、彼の仲間の元へ連れて行ってもらうと、それがテロリストグループだった。
 大体、そのような流れだろうと思う。



テロを起こすのはイスラム教だけではない

 イスラム教だけが、テロを引き起こしやすい宗教なのだろうかと少々調べてみたが、どうやら違うようだ。イスラム系以外の過激派の例は下記の通り。


カトリック系

プロテスタント系

※イスラムとの和平を説いたガンディーを殺害したのもヒンドゥー過激派



本当はテロと相容れないイスラム教
 聖典コーランの教義を素直に読んでいけば、テロが入り込む余地はないようだ。但し、テロリストに都合よく悪用されやすい記述も確かにある。


イスラム教の神の摂理の下では、誰も正当な理由無くして捕虜になることはない。戦争捕虜は唯一、通常の宣戦布告がなされた戦争や戦闘の場合のみにとらえられ、他の理由や口実の下にはとらえられない。聖コーランは以下の様に述べている。
「正規の戦いで打ち負かした敵に非ざれば、捕虜とするは預言者には相応(ふさわ)しからず。」 (8:68)



「おお、人々よ、あなたがたはまだ戦争の捕虜を扱っている。故に、私はあなたがたに助言する。あなた方が着る服、食べる食物と同様な物を彼らにも与えるように…..。彼らに痛みや苦悩を与えることは決して許されない。」



「戦争が終わったら、捕虜たちは恩恵の行為として、または身代金の支払いにより、 または相互交換交渉によって解放されるべきである。」



 ジハードは大きく2つのカテゴリーに分けることができる。
 第一は偉大なるジハードである。これは罪深い性向を抑制する自分自身の人格に対するジハード、すなわち自己の浄化である。これは最も困難なジハードであり、故に報酬と祝福の観点から見れば最高のカテゴリーのジハードである。
 第二は、小ジハードである。これは剣のジハードである。これは共同参加のジハードであり、ある特定の条件を前提とする。コーランが語っているのは、イスラム教徒を先制攻撃した者に対する戦闘のみであり、これは聖コーランの他の詩にも規定されている。



平和を乱す全ての営みと活動はイスラム教では厳しく非難されている。聖なるコーランには特定の禁止命令が見出せる。
「そして、地上が整えられた後、無秩序を起こしてはならない….」 (7:57;11:86; 29:37)
危害や邪悪は他のいくつかの詩でも非難されており、イスラム教徒はひとえに平和のために力を尽くすように命じられている。



全ての宗教の信者の基本的結束が聖なるコーランで力強く繰り返し強調されている。
「げに信ずる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにサービア人たち、(注61)そのいずれたるを問わず、アッラーを信じ、最後の審判の目を信じ、善行を積む人々は、主より必ず報奨を賜わらん。而して彼等には、恐ろしきこと悲しきこと起らざるべし。」(2:63)


イスラム教のことがよく分かる良サイトです。




テロの起点は宗教ではない
 テロリストの精神状態はある種の恍惚に包まれていると思われる。悪なる存在(政府、他宗教、他国、等)を打倒する為に命を懸け、安定や幸福とは無縁の人生観をもつ。
 そんな生き方を、銃や火薬だけでなく、宗教で武装する。自分は聖典の長大な歴史の中の一部であり、自分の行動はすべて神や天使の啓示によるもの、即ち聖なるものであると、心から信じることができる。常軌を逸する行為も、教典の解釈の変更により速やかに正当化される。
 テロリストのコーランを開いてみれば、きっと黒く塗りつぶされた箇所が無数にあるに違いない。彼らにとって、都合の悪い箇所が多すぎるからだ。


 人間が爆発的なエネルギーを放出し、常識を超えた行動を起こそうとするとき、宗教は効果的なツールになる。その行動が、創造的なものであれ、破壊的なものであれ。
 「創造」の例としては、ヒッピー時代に禅宗や般若心経に執心していたスティーヴ・ジョブズが有名。



宗教を盾にするテロリストの図

 ※あくまでも「テロリスト」を表現したものであり、アッラーを戯画化したものではありませんので、悪しからず。






2015年2月1日日曜日

テロと戦場ジャーナリズムの今後について考える

 ISIS(イスラム国)による後藤健二さん、湯川陽菜さん人質事件は、残酷な結果をむかえた。
ここで感情的になっては、テロリストの思う壺なので、冷静に今後の「テロと戦場ジャーナリズム」について考えなければならない。

 この問題について、現在の国内の議論は、
  「人命尊重!」「でも、ジャーナリズムも大事!」
 といった矛盾を抱えた状態だと思う。

 いわゆる「自己責任論」も国内の議論を混乱させている要因だが、「自己責任」の自負も無しに危険地域で活動しているジャーナリストは居ないだろうから議論の余地はないと考える。(逆に、「他者に責任を移転したジャーナリズム」とは何か? 企業あるいは政府に所属しながら取材をする者を指すことになるだろうか? そうした人は組織からの許可が下りない為、ISISのテリトリーには入らない)


■リスクとジャーナリズムのバランス
 ここで問題を整理したい。ジャーナリストが抱えるリスクは、自身の生命だけでなく、テロリストに交渉カードを与えてしまうという国際的な影響もある。その為、「リスク(人命を含む)」と「ジャーナリズム」を天秤にかけ、場合分けをしながら今後の方針を考えてみたい。

A.『リスク(人命) > ジャーナリズム』の場合

 リスクを回避する。すなわち、
  • 危険地域へ近づくことをジャーナリストも含め一切禁止する。
  • その上で、海外ジャーナリストの記事から、それなりの情報を得ることで納得する。
  • 日本人主体で情報収集する意義があるとしても、例えばトルコのような危険地域の近隣国のメディアと提携して取材を委託する等も考えられる。
B.『リスク(人命) < ジャーナリズム』の場合
 海外の力に頼ることなく「日本人自身が現地に入って取材すること」に意義があるとするならば、選択肢は大きく分けて2つだろう。

①リスクを許容する
 すなわち、今まで通りジャーナリスト自身の責任で取材を続ける。ジャーナリストが人質になった場合、日本政府は人質解放を強く訴えはするが、一切交渉には応じない。

②リスクを低減する方法を探り、取材方法を見直す
 例えば、取材は「現地の正規軍が帯同する場合に限る」といったことが考えられる。あるいは、ジャーナリスト団体(例えば、国境なき記者団)が共同で傭兵を雇って取材に帯同させることも考えられる。(取材活動の自由度が低下するデメリットはある)
 もっと良い方法はあるだろう。 

 日本の世論は人命とジャーナリズムのどちらを選択するのだろうか。今のところ、私の左耳には、ジャーナリズムを崇拝する声が大音量で聴こえている。


■感情ではなく戦略的な視座が必要

 生存問題を解決してしまった先進国の人々は、大した努力をしなくても生きることはできる。そのため、生命の危機に瀕した時に発せられる眩い生存エネルギーを感じることができなくなり、「生きる意味」に悩む。
 そんな中で、生存本能を掻き立てる方法の一つとして、「内戦、テロ、飢餓などで生存問題が未解決の地域に目が向ける」という行動が選択される場合がある。さらに、義憤に駆られ、自ら現地に行ってより大きなエネルギーを得たいと思う人も現れる。
 複雑なことに、危険な場所に向かう人々の無意識的な動機は自己の「生存本能の再確認」であるのに、それが、意識的な動機としての「正義感」という利他的感情で覆われてしまうのだ。(私見だが、リベラル系の人はこの種の正義感に感化されやすい)



 全てのジャーナリストがこのような自己の「危機感受志向」でシリアに向かっている訳ではないと思う。本当に、合理的でクリアな思考で、「行くべき」と判断している人もいるだろう。

 「危機感受志向」自体も、ジャーナリストも批判するつもりは一切ない。その上で、考えるべきは、戦略的な視座だ。
 テロリストも馬鹿ではないので、常に資金を得る方法や、捕まった仲間を取り返す方法、自らを示威する広報手段を戦略的に考えている。そんな時に、自分のテリトリーに無防備な外国人ジャーナリストがやってきたら、正に「鴨が葱を背負って来た」状態である。そうして、一テロリストが国際社会を揺るがす「交渉カード」を手に入れる。
 ジャーナリスト自身が「自己責任で行く」と言っても、一たびテロリストの人質になってしまえば、日本政府や国民は大きく揺さぶられることになり、他国にまでそれが波及する。テロリストが常識を超えた方法で、交渉を図ることも念頭に入れる必要がある。自身の意思とは無関係に、テロリストに手を貸すことになってしまうのだ。
(言いたくないけれど、テロリストの残虐性がエスカレートしていった場合、生きたまま人質の身体を少しずつ損傷させることで、こちらに揺さぶりをかけてくることも考えられる。そのとき、日本政府や国民は正気を保って居られるだろうか……)


■ジャーナリストが自らの価値を示す時

 だから、ジャーナリスト側も「義憤」ではなく、「戦略的」に考える必要がある。
 自らの動機を改めて見つめ直し、ジャーナリズムの生み出す価値を維持しつつ、自身がテロリストの交渉カードになってしまうリスクをどのように低減するのかを考える努力をしなければならない。(現在もある程度考慮しているだろうが、何らかのブレイクスルーが必要だろう)
 ジャーナリストは決して利己的な感情で現地に行くわけではなく、理性的かつ高い目的意識をもって取材を行っている。本人はそのつもりでも、納得できない人が少なからず存在することも事実。ジャーナリスト自身が自らの価値を明確に示すべき時がやって来たのかもしれない。

2014年10月15日水曜日

『イスラム国』VS『キリスト国』


イスラム国(ISIL)に世界中から若者が集結している今の現象は、
「破滅的な人」、「主流からあぶれた人」、
「暴力執行による有能感を求める人」が集合し、
彼ら自身が各々の自我の障害と向き合っている状況と言える。
この現象は決して止められない。
人類が社会的動物である限り、自我の発達や
自我を社会に適応させることに失敗する人が絶えることはないからだ。
イスラム国を壊滅させても、名前の異なる別の反社会的組織が生まれ、
そこに人々が集合する。

とはいえ放っておけば、組織が益々大きくなり、
核武装をした時点で暴力国家が成立するだろう。

主流世界へのチャレンジが始まり、現在の世界情勢を変更したい
と考えているロシア、中国といった国々が便乗する事態になれば、
いよいよ民主主義、資本主義をポリシーとする主流世界の秩序は
不安定なものになるだろう。

解決方法があるとすれば、彼らのような
自我に障害を抱える者たちの受け入れ口を予め整備し、
コントロールするシステムを構築することだろう。
その一例として、少し大胆な構想を提示してみる。
現実性やモラルは一旦横に置いておくので、悪しからず。



提案「イスラム国と対立するキリスト国(仮)を創設する」


① 「対テロ連合義勇軍」を設立する。
  反体制であり、主流と逆行するという意味での「悪」の象徴である
 イスラム国と対抗する、 「善なる組織」を作り、
 世界から義勇兵を募る。
  彼らは最前線で戦い、正規軍は後方支援に回る。
   効果:正規軍の人的・経済的消耗を軽減できる。
 (戦争の外注委託の事例は現実に、アメリカ軍による民間軍事会社活用や
  フランスの外国人部隊に見られる。)

② 俗称を「キリスト国」とする
  組織名は分かり易く、また扇情的であった方が、
  明確な対立構造を演出できる。
  効果:人々の耳目を集め、人も金も集まる。
  
③ 広く一般からの投資を受け入れる
   イスラム国とキリスト国を単純に武力衝突させるだけでなく、
   人と金を競合させる。
   効果:暴力によって自我の問題を解決しようとする人々の力や金を、
       特定の組織に一極集中させないようにする。

④ イスラム国とキリスト国との戦闘を生中継する
  放映権収入をスポンサーへの配当や義勇兵への報酬に当てる。
  効果:キリスト国が経済的に自立し、継続的な活動となる。

⑤ イスラム国を完全には壊滅させない
   イスラム国側の戦力が落ち過ぎないよう、攻撃を調整する。
   また、キリスト国の義勇兵を英雄として演出しつつも、
   イスラム国側の人物や兵力も紹介する。
   イスラム国もある程度魅力的なものとして描き、
   人と金の流入を維持する。
  効果:暴力を求める人々の行き場がなくなることを防ぐ。

このようにして、自我に問題を抱えた者たちに新たな選択肢を与え、
相互に対立させ、切り離された別世界の中で暴力を消費させつつ、
現状の主流世界は秩序を保ち資本も循環する
サスティナブル(持続可能な)システムだ。


 戦争は、望まない人にとっては確かに悪であるが、戦場に行きたくて居ても立っても居られない人もいる。そうした人たちが閉じた世界の中で戦うことは、哲学的に思考したときに、悪だと言い切れるだろうか。


2014年10月14日火曜日

『イスラム国』に集結する若者の心理

 イスラム国(ISIL)に世界中から義勇兵が加わりつつある。
 CIAはその戦力を2万から3.15万人と見込んでおり、そのうちの約1割が外国人である。
 イギリスから500名、ドイツから400名が参加しているとみられており、日本においても先日、学生がイスラム国への参加を試みたとして警察から事情聴取されたが、軍事評論家の田母神氏によれば、既に9名の日本人がイスラム国に参加しているという。

 これらの外国人は、必ずしもイスラム教や中東情勢に興味があるわけではないらしい。イスラム過激派に加わる者は、不遇な生活環境や家庭的に恵まれない若者が多かったとされるが、現在は中流・富裕層も多くいるとされる。

何故、彼らは戦場に身を置きたがるのか。ヒントはいくつかある。

・事情聴取を受けた大学生の発言(参考
「日本での社会的な地位などに価値を見い出せなくなってシリアに行きたいと思い、大学などすべての生活を投げ捨ててきた。イスラム教については、宗教を勉強している中で少し学んだ程度で、シリアなど中東情勢についてもあまり知らないが、戦場など特異なものに興味があり、感じてみたいと思った。『イスラム国』が発信する教えに共鳴したわけではなく、そうした宗教の考えのもとの国があったら、おもしろいだろうなと思った。戦場で自分が死ぬことは大した問題ではないと思う。」
「義勇兵になれないなら自殺する」

・シリア反政府組織に参加した元自衛官、鵜澤佳史氏(参考
「小学校の時に、いじめに遭いまして。生と死の極限状況に身を置けば、自分の生きる意味が違った視点から見られるかなと。」

これらから推測されるのは、下記3点のような心理だろう。

(1)自殺行為の代替(=自我の破綻)
 自分とこの世界が相容れないのなら、死ぬしかない。
 しかし、自分で自分を殺すこともできない。
 死の匂いのする処へ行きたい。リスクに身を晒したい。

(2)自己と相容れない外的世界に対する復讐(=自我の適応失敗)
 この世界は自分を認めてくれない。自分を必要としていない。
 自分の存在を脅かす。
 だから、身の回りの主流社会とは異なる立場に身を置き、対決しなければ、
 自分は生きられない。
 (例:勉強が出来ることを善とする学校は、勉強のできない自分の価値を認めない。
    だから「不良」になって、秩序を否定し反抗しなければ、自分の存在が消えてしまう。)

(3)暴力を執行する側に立てるという強烈な自己効力感の追求(=自我肥大)
 武力組織に加わり、自分が武器を手にすることで、
 世界に恐怖を与えることが出来る。
 自分はなんて強いのだろう。自分は無力などではない。
 外界への影響力持つことが出来る。
 そうして、世界と繋がることが出来る。
 (一部の富豪がイスラム国に投資しているとのことだが、
  彼らはこのカテゴリーに属するだろう)

 (1)~(3)のどれか一つであったり、複数が綯い交ぜになった状態だろう。
これは、多くの自我が未発達な時期の若者や主流社会からあぶれた者たちが、
多かれ少なかれ抱く感情である。
軽度なものであれば、普通の人にも日常的に湧きおこる感情だ。
就職面接に失敗したら、(1)か(2)に近い心理的状況に陥るのも自然である。

 こうした者が生まれるのは、人類が社会的な生活を営んでいる以上防ぐことのできない、普遍的な現象と言ってよいだろう。
 人間が画期的な思想を見出し、ユートピア的な世界を創造しない限り、過去も、現在も、未来もずっと同じことが繰り返される。全ての人が平等に幸福な時代がやって来るまでは……。

 以前はこうしたはみ出し者たちの一部は、ヤクザが受け入れていた。
現代はあらゆるものがグローバル化しており、イスラム国もグローバル化したヤクザという見方ができる。
 正規の軍隊や、脱退するのに指を切り落とさなければならないヤクザに比べ、手軽に本格的な武力集団に参加できるのだから、イスラム国は社会から弾かれた者たちにとって垂涎の選択肢なのだ。
 寧ろ、他に選択肢が無い。正に、「イスラム国に入れなければ死ぬしかない」なのだ。

 もっとも、実際戦闘経験の無い外国人がISILに入ったところで、雑用係を任されるか、訳も分からず前線に送り込まれて命を落とすことになる公算が高い。