2015年2月22日日曜日

トキソプラズマ ~ネコを追うネズミ・ネコが好きなヒト~



今日は猫の日。
ところで突然ですが、猫と関わりの深い寄生性の単細胞生物があります。それが『トキソプラズマ』です。

1.トキソプラズマとは
 世界中で見られる感染症で、世界人口の3分の1が感染していると推測されている。有病率には地域で大きな差がある。ガーナでは92%もありますが、日本では20~30%と推定されています。
 健康な成人の場合には、感染しても無徴候に留まるか、せいぜい数週間のあいだ軽い風邪のような症状が出る程度でありますが、重症化した場合には、脳炎や神経系疾患をおこしたり、肺・心臓・肝臓・眼球などに悪影響を及ぼします。予防するためのワクチンは現在ありません。

2.猫とトキソプラズマの関係
  寄生生物の中には、複数の動物の体内を往来しているものが少なくありません。トキソプラズマも複数の動物を経由しますが、その最終目的地が正に「猫」なのです。 トキソプラズマは、猫の体内に入ることで初めて有性生殖を行うことが出来ます。これにより、「オーシスト」と呼ばれる卵のような耐久性の強い形態となり、糞便として外界に排出されます。その糞便をネズミ等が摂食したり、土壌の中に溶け込んで植物や水を汚染することで他の生物の体内に入ります。
 
3.「じゃあ、猫は危険?」「いいえ、まず感染しません!」
  まず、猫と触れるだけで感染するわけではないことは明確です。感染猫がオーシストを排出するのは初感染の際の数週間に限られており、オーシストを排出しているのは猫の1~2%程度に過ぎません。また猫の糞便中のオーシストも成熟するのに数日を要することから、通常の飼い猫であれば飼い主が1~2日毎にトイ レ掃除をしている為、まず感染することはありません。
 飼い猫の場合は、トイレ掃除を怠って糞を長時間放置した時に感染のリスクが発生します。
また、公園の砂場等に放置されている野良猫の糞には注意が必要でしょう。

4.宿主の行動の変化
トキソプラズマが宿主にどのような影響を与えるかは、研究がまだあまり進んでいないようですが、いくつかの研究報告があります。


(1)トキソプラズマに感染したマウスはネコを恐れなくなる。また、猫の尿の匂いに引き寄せられるようになる。
 これはネコを終宿主とするトキソプラズマの巧妙な戦略です。あの『トムとジェリー』もトキソプラズマによって引き起こされたストーリーだろう、と私は思っています…。
 

(2)トキソプラズマの慢性感染によりヒトの行動や人格にも変化が出るとする研究例はかなりあります。
統合失調症や双極性障害にかかりやすくなる
・男性は、リスクを恐れなくなる・集中力散漫・規則破り・危険行為・独断的・反社会的・猜疑的・嫉妬深い・女性にもてない
・女性は、社交的・ふしだら・男性にもてる

 

男性酷いな(笑)。オタク系の男子に猫好きが多いのは、トキソプラズマで説明できるかもしれません。

(3)トキソプラズマが宿主の行動を操作する手段としては、脳内麻薬である「ドーパミン」が使用されているとみられている。宿主が、トキソプラズマにとって都合のよい行動をしたときに、報酬としてドーパミンが与えられる。
 

 寄生生物は、自然界には当たり前のように存在しており、自分より大きな生物の行動をいとも容易くコントロールしています。それは、人間も例外ではないと考えた方が自然です。
 私が猫の柔らかいおなかに顔を埋めるのも、トキソプラズマが引き起こしている行動なのかもしれません。





2015年2月20日金曜日

首相の日教組野次を冷静に分析する


 安倍首相が19日の衆院予算委員会で、民主党の玉木 雄一郎議員の質問中に、唐突に「日教組!」と野次を飛ばし、委員長から注意を受けるシーンがありました。
 質問は西川農水相側が砂糖業界から受けた寄付金を巡る内容であり、玉木議員は日教組の出身ではないので、「意味が分からない」さらには「幼稚だ」、「精神を病んでいる」との批判が集まっています。








■安倍氏の頭の中を分析

 大体、下記のような思考経路だったことが予想できます。

「民主党」 + 「政治献金の話題」 

       ↓



     (連想)

       ↓


 「あれ?企業献金よりも、日教組の民主党への献金の方が問題が大きいのでは?」



そして、反射的に「日教組!日教組!」という野次につながる。
安倍氏の 現在の精神状態は、比較的物事は自分の思い通り進んでいて、自信を深めている状態でしょう。国会も掌握しきっているという感覚である為、マナーをも超越できる訳です。


■日教組と民主党の問題とは? 

民主党と日教組の問題については、下記参照。

中山泰秀『日教組献金事件。これ個人献金制度にして大丈夫???』
 北海道教職員組合(北教祖)が民主党の小林千代美元衆議院議員の陣営に違法な資金提供(1600万円)をしたとされる事件がありました。教職員の個人名を使って献金し、日教組のバックグラウンドがあることをカムフラージュしていた疑いがあるとのこと。

安倍氏の日教組への問題意識は下の動画で雰囲気が分かります。
-安倍晋三、日教組に宣戦布告!(2010年)-



 教育者は政治的に中立であるべき。にもかかわらず、日教組はいわゆる左翼的な独特の思想をもち、その思想に沿う特定の政治家に金銭を渡すことで、社会への影響力を行使しようとしました。これは、子供たちを特定の思想へと洗脳することにも繋がりかねません。
 安倍氏が、このような問題意識を日頃から持っている為、今回の野次のような、「連想の飛躍による発言」が飛び出したと分析できます。問題意識が強いからこそ、熱くなってしまったのでしょう。


■理性的な批判をするならば・・・

 私自身は自民党にも、安倍氏にも中立的な立場です。
  安倍氏が批判されるべきは、政治献金つながりの話題とはいえ、「質問とは直接関係ない野次を飛ばした」という点だけです。確かに、お行儀が悪い。幼稚だという批判は、的確かどうかは分からないが気持ちは分かります。但し、「精神を病んでいる」とまでは言えないでしょう。

 個人的な連想の飛躍から、他者に理解できないことを話してしまうというのは、私を含め誰しもがやってしまいがちなミスです。ロジカルにコミュニケーションをとるということは、案外難しいものなのです。

 今回の件をよく知りもせず、調べもせず批判している方の多くは、個人的な思想やコンプレックス等の理由で、政府、自民党、首相の批判をしたいという欲求を予めもっています。その為、自分の欲求に対して都合が悪い情報には耳と目閉じてしまい、感情的な批判に終始してしまうのです。






2015年2月15日日曜日

アンドロイドと人の心 ~アンドロイドが社会に溶け込むとき~

 先日、初めて科学未来館へ行きました。



 ドームシアター(プラネタリウム)が目的だったので、その他の展示は全くリサーチ無しで行きました。全体を通じて子供向けな雰囲気ですが、大人もそれなりに楽しめます。
 到着して常設展示を見に行くと、ちょうどASIMOのデモンストレーションが始まるところでした。


 不安定そうな二本足の物体がスムーズに歩く様子を子供も大人も面白がっていました。
 長らくASIMO開発は継続されていますが、デモ中の説明も含め、2足歩行の動作制御に偏りすぎている気がします。個人的には、もっとAIを駆使して、自分で外界の現象を認識し、抽象的な指示に対しても、自分で解釈して行動できるという方向に進まないかなと期待しています。クラウドも取り入れられそう。

 大阪大学の石黒教授のアンドロイドも『オトナロイド』として展示されていました。
 他のお客さんは口々に「気持ち悪い」と言っていました。石黒教授によれば、アンドロイドの容姿がヒトに近づくほど、人々は気持ち悪さを覚えるという。
 ヒトに似せた物体である「人形」に不気味さを覚えるのも同じようなことで、「ヒトであってヒトでないもの」に心的な抵抗が生じるのだと思う。
 しかし、アンドロイドがさらに人に近づいていけば、その気持ち悪さが消える瞬間があるはずであり、その瞬間が、ヒトとアンドロイドの境界を考える上で重要なポイントとなる。 





 
 もう一つ考えさせられるのは、このアンドロイドが「インターフェース」の役割を果たしているということです。
 実演の時間では、科学未来館のスタッフが、このアンドロイドを操作し、声を発して、「客いじり」をしたり、アンドロイドの説明をする。この時、このアンドロイドは人と人との間を繋ぐツールとなっているのです。こういう形のスマホだと思ってもいいと思う。スマホと異なるのは、「ヒトの形」をしていることであり、このアンドロイドと相対した時、本物の人と対峙している時と同様の心的現象を相手に引き起こすことができる点にあります。アンドロイドであっても、じっと見つめられると気恥ずかしく感じるものだし、笑顔を向けられるとこちらもつられてしまう。
  このインターフェースは、「ヒトの形」というツールを利用して、相手に何らかの心的現象を引き起こすことができるということです。
 だから、そんなアンドロイドを使って気安く「客いじり」をするのはやめてもらいたい(笑)

 そんなアンドロイドの特性を最大限活用したのが、『テレノイド』です。



 

 「ヒトらしきもの」をツールとしているロボットの他の例としては、ソフトバンクの『Pepper』があります。こちらは、ヒトの姿に似せるのではなく、AIにより「ヒトらしい会話」をすることで相手に「ヒト」を感じさせるものです。 



 ASIMOは動作をヒトに似せようとしているが、それよりも姿や会話によってヒトらしさを感じさせるロボットの方が直接的かつ深く人の心に訴えかけるものがあるので、早く社会に溶け込んでいきそうです。

 個人的には、精巧なセクサロイドができれば、人々の抱える悩みや、多くの社会問題が解決に近づく気がします。この話は長くなりそうなので、またいつか。



- Ending music -





2015年2月11日水曜日

本当はテロと相容れないイスラム教 ~宗教とテロを再考する~

 真っ当なイスラム教徒はテロとイスラム教は関係ないと訴える。
 確かにそうだなと思いつつ、ちゃんと考えたことがなかった為、私なりに整理してみた。
  

テロの根源にあるもの
 テロが起こる条件は、そもそも何だろうか。 大きくは2つあると思う。

1.無政府状態(政府があっても正規軍が脆弱)
2.社会への不満(貧困、不平等、失業、等)


 厳しい現実を直視できないままもがいているうちに、有り余るエネルギーやネガティブな感情をぶつける方法を模索する。そんな時、生き生きとした活動的な同世代の若者と出会う。彼と意気投合し、彼の仲間の元へ連れて行ってもらうと、それがテロリストグループだった。
 大体、そのような流れだろうと思う。



テロを起こすのはイスラム教だけではない

 イスラム教だけが、テロを引き起こしやすい宗教なのだろうかと少々調べてみたが、どうやら違うようだ。イスラム系以外の過激派の例は下記の通り。


カトリック系

プロテスタント系

※イスラムとの和平を説いたガンディーを殺害したのもヒンドゥー過激派



本当はテロと相容れないイスラム教
 聖典コーランの教義を素直に読んでいけば、テロが入り込む余地はないようだ。但し、テロリストに都合よく悪用されやすい記述も確かにある。


イスラム教の神の摂理の下では、誰も正当な理由無くして捕虜になることはない。戦争捕虜は唯一、通常の宣戦布告がなされた戦争や戦闘の場合のみにとらえられ、他の理由や口実の下にはとらえられない。聖コーランは以下の様に述べている。
「正規の戦いで打ち負かした敵に非ざれば、捕虜とするは預言者には相応(ふさわ)しからず。」 (8:68)



「おお、人々よ、あなたがたはまだ戦争の捕虜を扱っている。故に、私はあなたがたに助言する。あなた方が着る服、食べる食物と同様な物を彼らにも与えるように…..。彼らに痛みや苦悩を与えることは決して許されない。」



「戦争が終わったら、捕虜たちは恩恵の行為として、または身代金の支払いにより、 または相互交換交渉によって解放されるべきである。」



 ジハードは大きく2つのカテゴリーに分けることができる。
 第一は偉大なるジハードである。これは罪深い性向を抑制する自分自身の人格に対するジハード、すなわち自己の浄化である。これは最も困難なジハードであり、故に報酬と祝福の観点から見れば最高のカテゴリーのジハードである。
 第二は、小ジハードである。これは剣のジハードである。これは共同参加のジハードであり、ある特定の条件を前提とする。コーランが語っているのは、イスラム教徒を先制攻撃した者に対する戦闘のみであり、これは聖コーランの他の詩にも規定されている。



平和を乱す全ての営みと活動はイスラム教では厳しく非難されている。聖なるコーランには特定の禁止命令が見出せる。
「そして、地上が整えられた後、無秩序を起こしてはならない….」 (7:57;11:86; 29:37)
危害や邪悪は他のいくつかの詩でも非難されており、イスラム教徒はひとえに平和のために力を尽くすように命じられている。



全ての宗教の信者の基本的結束が聖なるコーランで力強く繰り返し強調されている。
「げに信ずる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにサービア人たち、(注61)そのいずれたるを問わず、アッラーを信じ、最後の審判の目を信じ、善行を積む人々は、主より必ず報奨を賜わらん。而して彼等には、恐ろしきこと悲しきこと起らざるべし。」(2:63)


イスラム教のことがよく分かる良サイトです。




テロの起点は宗教ではない
 テロリストの精神状態はある種の恍惚に包まれていると思われる。悪なる存在(政府、他宗教、他国、等)を打倒する為に命を懸け、安定や幸福とは無縁の人生観をもつ。
 そんな生き方を、銃や火薬だけでなく、宗教で武装する。自分は聖典の長大な歴史の中の一部であり、自分の行動はすべて神や天使の啓示によるもの、即ち聖なるものであると、心から信じることができる。常軌を逸する行為も、教典の解釈の変更により速やかに正当化される。
 テロリストのコーランを開いてみれば、きっと黒く塗りつぶされた箇所が無数にあるに違いない。彼らにとって、都合の悪い箇所が多すぎるからだ。


 人間が爆発的なエネルギーを放出し、常識を超えた行動を起こそうとするとき、宗教は効果的なツールになる。その行動が、創造的なものであれ、破壊的なものであれ。
 「創造」の例としては、ヒッピー時代に禅宗や般若心経に執心していたスティーヴ・ジョブズが有名。



宗教を盾にするテロリストの図

 ※あくまでも「テロリスト」を表現したものであり、アッラーを戯画化したものではありませんので、悪しからず。






2015年2月8日日曜日

「壁ドン」してほしい… ~焦燥の日本女性~

流行語の「壁ドン」が、2014年ユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選ばれた。

「壁ドン」は、ご存じのとおり「男性が女性を壁際に追い詰めて手を壁にドンと突く行為」である。
こうしたシチュエーションは、漫画やアニメで昔からよく使用されたもので、登場人物の男女関係を示す記号的役割を果たしてきたのだが、その行為自体に明確な名称がつけられていなかった。
2008年に声優の新谷良子が「萌えるシチュエーション」として「壁にドン」という言葉で紹介したのが初出と言われており、2014年にSNSを介して「壁ドン」として急速に広まった。

 皆がなんとなく気になってはいたが名無しだった概念に、名前が付くことは気持ちの良いことである。現在は、若い女性が中心となり、嬉々として新しく誕生した言葉「壁ドン」を活発に使い、その習熟度・認知度を向上させている段階である。 
「壁ドン」が流行したのには、下記のような社会的背景があると思う。

■社会的背景1:『女性活躍』というスローガン
 日本は国際的に見ても女性の社会進出が難しい社会である。そんな社会であるがゆえに、女性が価値を示すには、良い結婚をして、良い子供を産み育てることである、という旧来の価値が根強く残っている(ここでは旧来の価値の是非は置いておく)。
 そのような社会を変えようと、政府から「女性活用」「女性活躍」というスローガンが掲げられ、社会は概ねその方向に向かいつつある。しかし、多くの女性 は、まだ女性が活躍する社会をイメージできず、旧来的な価値を保持しており、出来ることなら家庭に入って、家庭を守りたいというマインドが未だ優勢のように見える。
「女性を労働力にしようとする政策」「心の準備が整っていない女性」との間にあるギャップが、今は大き過ぎる。故に女性にとって今の社会は、「本当は労働から逃れ、責任を負わされることのない安住の地でずっと穏やかに暮らしていたいのに、社会はそこから引きずり出そうとする」というストレスフルな状態なの だ。
 このような状態が、自分を支配し外界から守ってくれそうな「壁ドン」男性への憧憬を抱かせる一因となっていると思われる。
■社会的背景2:『草食系男子』の存在
 積極的に異性と関わろうとしない男性に『草食系男子』という名称が与えられ、当初は「男らしくない」という批判的なニュアンスで論じられることが多かっ た。だが今では、そういう人種が相当数存在し、おそらく漸増しているという事実が受け入れられ、草食系が存在してもよいという認識が広まった。そうして草食系も市民権を得るに至ったのである。近年では、無性的な人生を歩もうとする『絶食系男子』も注目されつつある。
 そこで困るのが女性である。女性は身体的構造からして、生殖行為の基本的態度は「受動」である。勿論、人間の女性は理性的な意思決定によって行動するが、 心理的にも、生物学的な雌としての影響を強く受ける。したがって、往々にして生殖の起点は、男からのアプローチなのである。(※あくまでも、心理学的な傾向であり、個人差はあります)
 にもかかわらず、草食系男子の登場により、生殖を実現するには、自らが「肉食系女子」となり、女性からアプローチしなければならなくなったのである。これは、一般的な女性には大きな心的ストレスである。
 このような社会において、「壁ドン」してくれるような積極的な男子は崇高で理想的な男性像なのである。
■社会的背景3:処女の増加
 「壁ドン」以前にも、理想の男性が女性を迎えに来てくれるイメージとして「白馬に乗った王子様」がある。他にも、グリム童話の「白雪姫」や「ラプンツェ ル」、さらにはスーパーマリオのピーチ姫など、姫が王子の登場を待ち望んでいるという原型的な心理が反映されたストーリーが多く存在する。
 「壁ドン」願望をもつ女性は、こうした物語における姫願望をもっていると見てよさそうだ。そして、そうしたメルヘンチックな姫願望をもつ傾向にあるのが、現実の性を知らない処女である。
 若者の性体験率は、2005年あたりをピークに現象を続けている。女子大学生に限ってみれば、2005年は61.1%だったが、2011年には46.8% にまで下がっている(財団法人日本性教育教会調べ)。(※ただし、今と昔では「大学生」の価値が異なること、2011年は震災があった特殊な年であったことという無視できないバイアスが含まれている)


 若い頃に機会を失えば、そのまま処女で居続ける女性の割合も多くなっていると予想できる。故に、「壁ドン」願望を持つ女性も増えるのだと考えられる。
 そもそも、この流行は処女かつサブカルチャーに親和性の高い『腐女子』が盛んに広めたものだとも考えられるが。


 以上をまとめてしまうと、「壁ドン」が流行ったのは、心の準備ができてないうちに女性を労働力にしようとする雰囲気が社会に立ち込め、女性に焦りが募る一方で、性欲旺盛な男性が減少し、性行為の機会をもてないまま、創作の世界の理想の男性像を強く求めた結果である。
 いずれにしろ、2015年には流行が終わり、普通の言葉としてそれなりに定着し続けることになるだろう。そして、日本の抱える性の問題が現状のままであれば、女性の不安や焦燥を背景とする別の新語が流行することになるのだろう。


教育の構造的改革 ~問題解決の為のある構想~

1.問題点まとめ

前回記した、日本の教育における構造的問題についてまとめる。


①教育の陳腐化
  • 社会は学歴を求めるが、学歴では実社会で必要な能力を測れないというギャップが生じている。
  • 教育課程で実践的な能力を身に着けることができない

②政府の教育投資の不備
  • 政府の教育投資は幼少段階高等教育段階足りておらず、個人が大きな負担を背負っている。
  • 政府の施策は、カリキュラムにコミットすることと、金銭的な支援くらいで、教育を取り巻く日本の社会構造自体に変化を及ぼすような改革は期待できなさそう

③教育コストの高騰
  • 教育コストが少子化の最大の要因である。
  • 親の教育への投資能力の差により、教育の質の格差、ひいては経済的格差が生まれている。


2.一つの提案


教育を取り巻くこれらの問題を根本的な解決のためには、社会構造そのものから見直さなければならない。

生命の社会化』のページで少しふれたが、国が子供を引き取り教育のコスト・質の保証を行わなければならないのではないかと考え、下記のような仕様の「国立教育センター(仮)」を構想してみた。

A.生活
  • 子供が生まれたら「国立教育センター(仮)」に預け、育児・教育を全て託す。
  • 子供は基本的に施設で生活するが、親とは自由に面会したり、ネットワークを介してコミュニケーションをとることができる。

B.カリキュラム
  • 心の発達において重要な時期である幼児期には、心理学的に適切な母性・父性、刺激、体験を与える。(学術的に正しく、バラつきのない方法に基づくことが重要。一般家庭でもこの段階で失敗しているケースが多く見受けられ、これは子供本人にも社会にも多大な損害を与える)
  • 基本的な教育方針は、全ての日本人をグローバル社会で活躍でき、事業を起こす能力をもつ人材とすること。
  • 英語、プレゼン力、経営学、ICTは必須。さらに、ロジカルシンキング、心理学も学ぶと望ましい。教育の後期には、実践的な職務遂行能力、組織運営・経営のノウハウを実地で学ぶ。
  • 基本的な教育カリキュラムは行政の綿密なプログラムに従って作成され、実行される。
  • 教育方針には、ある程度の選択肢があり、本人や親が選ぶことができる。
  • 親が育成により強く介入したい場合は、後述する「子ども債」を購入することで、オーナーシップを向上させ、教育にオプションをつけるなど、口を出すことができる。
  • 大学相当の教育まで実施の上、就職・起業支援まで行う。




 C.教育コスト

 この仕組みを運営するには莫大な資金が必要である。税金だけでは賄えない。そこで、下記のような仕組みを考えた。

  • コストは国が一旦負担する。国が債権者として債権を保有し、子供本人が債務を負う。
  • この債権を「子ども債」と名付ける。(日本社会は、子どもを中心に物事を考える為、既存の国債とは別に取り扱う方が資金を集めることができると思う)
  • この「子ども債」は、親だけでなく他人も購入することができる。
  • 本人が仕事を始め所得が発生するようになったら、所得税で債務を返済する
  • 返済し終わったら、税率が下がる。
  • 引き続き支払い続ける税は、債券保有者への配当や次世代のために使われる(貸し倒れもこれで充当)。次世代に負の遺産は残さない。
副次的効果として、親も自分のキャリアや自己実現を諦 めなくて済む効果がある。子供が生まれると、その時点から保守的な人生を歩まねばならないと考えてしまう傾向がある。しかし、子供を産んでも膨大なコスト を支払う必要もなく、教育方針に悩まされることもないのであれば、人の親になっても個人として生きることができる。逆に言えば、子供を理由に挑戦しないと いう選択は出来なくなる。




   
 この手法は、「子供と教育は未来への投資」であるという考えに基づく。これは綺麗ごとでも何でもない。子供を産むことは、会社に例えれば、「新事 業の立ち上げ」であり、教育はその事業へのリソース投入やコンサルティングに当たる。新事業を上手く成長させることができれば、新たな収益の柱となり、即ち家族を支える存在となる。
 しかし、今の日本は十分な資本を持つ者でなければ、「子供」という新事業を立ち上げることはできない(資本がなければ、その名の通り「問題児」の事業になる)。
 この状態に対するブレイクスルーは、「ベンチャー・キャピタル」や「クラウドファンディング」である。つまり、子供への投資をオープンに募るのだ。
 同時に、債権者は教育に対して強くコミットし、子供を稼げる人材に成長させようという力が働く。債権者の意思を汲み、教育を改善するのが、子供を親から買収した「国立教育センター(仮)」である。

 最近流行のピケティによれば、日本の所得上位10%の人々の資産が日本の総資産に占める割合は、48.5%にも達する(欧米に比べればまだマシだが…)。つまり、日本の富の半分は上位10%お金持ちが独占している。そのだぶついた 富が向かう先は金融商品あるいは不動産である。
 この投資の流れを少しでも、次世代の「人」へ向ける為に、上述の「子ども債」のようなものが必要ではないか。格差の是正方法は、お金持ちから収奪することだけではないと信じている。但し、投資である以上、一定の利回りを期待できるものにしなければ、投資家の目を引くことは出来ない。
 次世代の「人」に投資すればするほど投資家が儲かり、日本社会の教育格差そして経済的格差が是正される。そんなシステムになるのではないだろうか。
 



教育の構造的改革 ~教育の構造的問題~

1.背景

 一般論だが、多くの人は、他の子供と自分の子供を差別化し社会的に優位な地位に立たせたいと考える。日本において個人の優位性を示すには、アイデンティティ を示すのではなく、社会で共有されている指標に対して、自分がどれくらいのレベルであるか示すことが重視される。その指標の典型が「学歴」となっているの が現状だ。
 教育の本来の目的は、社会の中で大きな価値を生み出せるようになること、世界を知り人生の選択肢を狭めないこと、学びの習慣を身に着けること、精神的な成長を促進し心を豊かにすること、といったことだろう。

  教育コストと格差の問題もある。高額なコストを支払えば、有名私大付属の幼稚園や小学校に入れることができる。そうして受験のストレスを回避しつつ、社会 的地位の保証を購入することができる。私立校は集まった資金で教育の質を高め、またそこに人とカネが集まるという循環ができる。
  一方、多額のコストを支払うことができない家庭の子は、公立校の貧弱な教育を受けることになる。有名な大学に入るためには、学校外の教育サービス(塾な ど)を利用して勉強することになる。近年ネットを活用した教育サービスが増加し、教育が民主化されつつあるが、ここでも相応のコストが必要になる。

 そもそも、教育が学歴を得るためのもの、テストの点数を取るためのものに成り果てており、自己目的化している。点数稼ぎの教育は唯の記憶行為であり、学びではない。教育に多大な時間とコストを費やした筈なのに、教育課程で学ぶ事柄と実社会で求められる能力には乖離がある為、社会に出ても何の役にも立たない。
 教育は国家の戦力となる人材を育てるという社会的な側面もあるが、それだけではなく、個人が「知」という武器を手に入れ、出自や性別などに関わらず行動や職業を選択できるようするものだった筈だ。


2.家計の教育支出

文部科学省のホームページによれば、下記の通りだ。


  • 大学卒業までにかかる平均的な教育費は、全て国公立でも約1,000万円、全て私学だと約2,300万円に上る。
  • 子供1人が大学生になった段階での家計の貯蓄率は、-10.4%である。(負債を負っている)
  • アンケートによれば、教育費の高さは少子化の最も大きな要因の一つ。


 文部科学省は予算が欲しいため、家計に教育の負担をかけすぎているとアピールしたい面もあるだろうが、この内容は一般の感覚とそれほどかけ離れていないだろう。

 3.教育への政府の投資
  政府も何もしていないわけではないが、教育への投資は量的に十分だろうか。それは正しい方向に向けられているだろうか。
 次の図は、日本のGDP比の対高齢者向け支出と対家族・子供向け支出を「1」として、他のoecd加盟国と比較したものである。超高齢化の日本とそうでない国を正しく比較する為、少子高齢化の影響を調整してある。






  図中の点線より左の国は日本以上に高齢者に支出しており、右の国は日本よりも次世代のために多く支出していることになる。日本よりも高齢者に多くの支出を費やしている国は、アメリカと韓国しかない。
  多数決の原理に従う民主主義の下では、与党・政府は若者世代ではなく、高齢者に耳を傾けざるを得ない状況であることが読み取れる。政治家自身が中高年であ ることも高齢者への共感を過度に高めている可能性もある。また、世界的に見ても日本人は投資が下手であるということも影響しているかもしれない。
 日本以上に苛烈な受験戦争と学歴格差が生まれ、少子化が進んでいる韓国が、このような結果になっているのは納得できる気がする。恋愛・結婚・出産を放棄しなければならない今の韓国の若者は、一部では「三放世代」と呼ばれている。若者世代への支出が少ないことも影響していそうだ。(そもそも全ての国民に対する支出規模が小さい、国民に厳しい国であることも読み取れる。現状は、政治に失敗している韓国政府への国民のフラストレーションを日本が請け負っている側面もある)
 日本は韓国を反面教師にしなければならない。



日本政府の教育白書もざっと目を通してみた。

「学びのセーフティネット構築」という言葉から、どのような貧困家庭でも、高度な教育が受けられるようにする仕組みなのかと期待した。しかし、金銭的な支援と防災の話に終始しており、全ての人が高いレベルの教育を受けられるインフラを整備する構想ではない。あくまでも、ハコモノに軸足を置いたものだ。

各教育段階のどこに投資が不足しているかは、このサイトがよくまとまっている。簡単にまとめると、下記の通りだ。

  • 義務教育以前と高等教育の段階で投資が足りていない。(小中学校は足りている)
  • 不利な経済状況にある家庭の児童は小学校入学時点で既に、豊かな家庭出身の児童に学力差をつけられている。
  • それがその後の低学力・低学歴へとつながり、大人になって再び不利な社会経済状況に立たされる
  • 貧困の連鎖を断ち切る事を考えた場合、就学前教育は非常に重要になってくる。


次回は、教育に関するこれらの構造的問題に対処する為の私の考えをまとめる。


生命の社会化シリーズまとめ



生命の社会化 ~子供は社会が育てるもの~

 日本でパックスや事実婚を広め、気軽に子供を産めるようにするのもいいのだが、夫婦間の拘束力が弱まるため必然的に片親の子供が増加することが予想される(フランスの婚姻とパックスと事実婚の離婚率の統計があればよかったが、探し出すことができなかった)。
 どのような家庭でも一定水準の養育・教育を享受できるシステム(セーフティネット)がなければ、いたずらに貧困家庭を増やすことになってしまうだろう。堅牢な婚姻制度は、「育児システムとしての家族」の形状を安定させるための装置でもあるのだ。

  昔のように祖父母が育児に協力してくれれば、若い夫婦がガンガン働いて稼ぐことができるのだが、祖父母が協力してくれない、あるいは、そのような環境にないほとんどの核家族は、特に母親が育児に体力と時間を費やしてしまい、まともに働くことは出来ない。行政サービスはキャパシティオーバーだし、民間サービスは高額である。核家族は、生産性の高い若いうちに、資産を増やすことができず、運が悪ければ高コストな民間サービスに頼らなければならない。祖父母が育児に参加するかどうかで、大きな格差が生まれるのである。
 社会的には、父母だけが「働け。そして育児もしろ!」と責め立てられがちだが、一族の資産を増やしたければ祖父母も育児に参加すべきということを、高齢者たちには自覚してほしいし、祖父母に子を託すことに遠慮は要らないという社会的な共通認識が醸成されるべきだと思う

  しかし、現実的な問題として、物理的な距離の問題や、人間関係の問題で、祖父母と協力しながら育児のできない夫婦も多く存在する。都市部に住んでいる夫婦が、田舎から祖父母を呼び寄せるなど考えにくい。普通は一緒に住みたくないし、祖父母の住宅を別に用意する金銭的な余裕はない。

 ならば、「子供は社会で育てる」という認識の下で、国家的に養育・教育システムを組むことはできないだろうか。簡単に言えば、国が子供を完全に引き取って、養育・教育するのだ。そうすれば、親の責任や金銭的負担を軽減させることができる。更には、そもそも婚姻に頼らずとも子供を作りやすい社会になるのではないだろうか。
 考え方を下図に示す。





 悪く言えば、国が親から子供を取り上げてしまっているようだが、良く言えば、日本人として生まれた生命を漏れなく社会全体で支えるおせっかいなほど手厚いシステムと言える。
 昔は、コミュニティ全体で子供の面倒を見ていたとよく言うが、その延長として捉えてもらいたい。『日本村』といった風情だ。
 ここまでドラスティックな政策を打ち出せば、国民のマインドは変化し、安心して子供を産める国になるのではないか。この仕組みの詳細は別のページで説明する。


生命の社会化 ~結婚の常識を壊したフランス~


男女の在り方や結婚の形態については、もっと選択肢を広げるべきである。
フランスでは結婚には3つの形態がある


  1. 日本のように婚姻関係を結ぶこと。
  2. パックス(PACS:連帯市民協約)という、1999年に開始された、2人の個人間で安定した持続的共同生活を営むために交わされる契約。
  3. ユニオン・リーブルという婚姻関係もパックスも結ばない、法的手続きを踏まないつながりを持つこと。オランド大統領とファーストレディの関係はユニオン・リーブルである。

婚姻の種類の全体の割合は下記の通り。
  1.  婚姻関係:2320万人(全体の73.1%)
  2.  パックス:138万人(4.3%)
  3.  ユニオン・リーブル:717万人(22.6%)
(仏国立統計経済研究所調べ;2011年時点)参考

 しかし、最近の単年でみると、パックス婚が急速に増加している。
 2008年の婚姻件数は27万3500件であったのに対し、パックス婚は14万6千件に達したのである。

 婚姻とパックスの大きな違いは、婚姻関係における離婚は裁判官による審理が必要となるが、パックスは両者の同意は必要なく簡単に契約破棄できる点にある。また、パックスは同性間でも可能である。
  個人が多様であるように、人と人との関係もまた多様であるはずで、日本においても外面は同じ婚姻でも、夫婦の関係性は様々だろう。私自身の婚姻も、概念的にはパックス婚に近い。どちらかが離婚したければしてもよいし、子作りのための関係でもない。他の異性と交際することを制限しないことにもなっている。かといって、お互いに性的欲求がそれほど高くないため、その権利を行使することは今後もないだろう。このように、共同生活をし社会的な優遇を受けつつも、個人や自由を尊重する男女関係も存在しうる(我が家がちょっと特殊なのかもしれないが)。日本には、旧来的な婚姻制度しかないため、それに頼るしかないのだ。

  パックス婚自体の考え方も参考になるが、古い婚姻の概念を残しつつ、現実の問題を解決するために新しい選択肢を作ってしまうという手法自体も日本は参考にできるだろう。
 特にフランスは、カトリック系の宗教をこじらせたやっかいなタイプの保守派が存在する。そうした保守や頭の固いお年寄りにも受け入れられる新しい社会制度を作ろうとした場合、この考え方は重要だった。古いシステムを派手に破壊するのではなく、古く形骸化したシステムと新しい有効なシステムを並列させ、じわじわと古い方を無意味化していくのだ。

  婚姻の概念を変化させるには、これまでの道徳を疑うような価値観の転換が必要だ。我が家の婚姻の概念について他者に話をすると「他の異性と交際することを制限しない」という部分にとりわけ不快感を示す人が多い。これは、配偶者が別の異性と交わることを、異性を独占したい動物的な本能が拒んでいるためだろう。 また、特定の人間が複数の異性を独占することは、男女受給のアンバランスが起きてしまうという考えが働き、それが性的な道徳へと変換され、男女一対の美徳 や不貞への憎悪を生み出していると考えられる。このような、感情や道徳の壁を乗り越えなければ、日本における現在の価値観、ひいては現状の婚姻制度に楔を打ち込むことはできないだろう。 
 フランスの婚姻制度の底流にはおそらくカトリックの保守的な思想が流れており、それがあまりにも深刻で重たすぎるものになっており、結婚も離婚もひどく面倒 である。そのため、現代のフランスの若者にとっては受け入れ難いものになってしまった。
 それに比して、日本は結婚も離婚も紙切れ一枚あれば済んでしまう。 集団主義の日本において婚姻制度を重たいものとしているのは、専ら「世間の目」を気にしすぎる点にある。この「世間の目」を柔らかくするためにも、婚姻に対する価値観を日本全体で変えなければならないのだ。

 そもそも現代日本の結婚観は、明治時代に欧州からもたらされたものだ(参考:人類婚姻史)。当の欧州が結婚の概念を見直し始めているのに、日本は彼らからプレゼントされたものをいつまでも大事にしている。結婚観にしても、憲法にしても、物持ちがいいと言うべきか、慎ましいと言うべきか…。
 男女一対の美徳、婚姻と出産の癒着といった観念を緩めれば、採集部族としての日本人が、縄文から明治にかけて行ってきた男女複数同士の緩やかなつながりの中で子供を作る種族保存方法に近づくことになる。その方が、日本人には合っているのではないだろうか。私たちは過去に戻ることは出来ないが、新たな方法で日本人に適合する種族保存方法を見出していく必要があるように思える。


生命の社会化 ~この世に生命が産まれるのに越えなければならないハードル~

  少子高齢化が進み、日本は団塊の世代が要介護者となる最も苦しい時代を迎えようとしている。人口を増やすべきかどうかの議論は別にあるとしても、各世代の 人口のアンバランスを少しでも解消し、傷口を広げないためにも、これ以上の少子化は食い止めなければならない。他に解決策があればよいのだが、現実的なアプローチとしては子供を増やすしかないのが現状である。
 子供を作り、育てるということについて、変化させるべき一般的な共通認識とどのように変化させるべきかについて、私なりの考えを下記に記した。

●現状の共通認識:
 ・子供は実の親が育てなければならない
 ・婚姻制度をベースとした子供しか認めない

●持つべき認識:
 ・子供は社会が育てる
 ・婚姻制度ベースの子供じゃなくても認める


■1.日本に生命が産まれるまでのハードル


 さて、子供を作ろうとすると、まず結婚をしないと、世間から冷たい目で見られ、行政や会社からの優遇措置も受けられない

 じゃあ、結婚をしようかと思うと、現在の婚姻制度は、心理的にもコスト的にも非常にハードルが高い。相手を探す作業や、さらに結婚の前段階である恋愛作業には、時間とお金が非常にかかる
 いざ結婚をしようと思っても、高い教育コストを支払って子供を有名大学に入れなければ、無残な社会的地位に落ちてしまう。そんな収入が2人にはあるのだろうかと不安になる。自分の子供が惨めな思いをするくらいなら、作らない方がよいし、子供を作らない結婚などしない方がよいとさえ考える。
 良い住環境を手に入れるにも、膨大な資金が必要である。
 また、一度結婚してしまうと、離婚したくても両者の同意がなければできないし、離婚もまた世間からの冷たい目があるため、一生を添い遂げる重大な覚悟で結婚しなければならない。

 こんなハードルがあっては、子供など作れるわけがない。余程の資産家か、半ば自暴自棄になった人でなければ。
  オジサン・ジイサン連中と飲みに行くと必ず、「結婚は? 子供はいる?」と聞かれる。私が「既婚で、子供はいない」と答えると、子供が欲しいとも言ってい ないのに、「大丈夫、子供なんて作っちまえば何とかなる」と返ってくるのである。社会保障を勝ち逃げできる世代はこの発想でよかった。今は状況が異なる。



■2.婚外子を認める世界の国々

 フランスをはじめとする少子化対策を成功させた国々が実施したことは、婚外子を社会的に認めることであった。

世界各国の婚外子の割合

 スウェーデンやフランスの婚外子が50%を超えているのに対し、日本は2%台である。日本もそろそろ婚外子を社会的に認めていくべきではないかという議論が一部で始まっている。
 フランスは婚外子を認める社会にするために、結婚の概念も多様化させた。


 次回は、結婚の概念を見つめ直す為にも、フランスの婚姻制度の事例を取り上げてみる。


人類婚姻史シリーズまとめ

人類の婚姻史についてまとめたページ。



 

 

人類婚姻史 ~日本の婚姻史~

 「知的な生命である人類は古代から一夫一婦婚だった」と信じる人が多いようだが、婚姻に関する認識は、ここまでで見てきたように時代とともに大きく変化してきた。
 ここでは、婚姻の形態の変遷を時系列でまとめてみる。特に、独特な婚姻形態をつい最近まで持っていた地域である日本を中心に示す。  





 原始の日本民族は長い間、採集部族として集団婚(それも、最も原始的な近親との婚姻)を続けていたとみられる。
 1700年前に大陸からやってきた侵略部族に支配され、統一国家が形成された後も、長い間集団婚の流れを汲む夜這い婚(妻問婚)を続けた。 

 大宝律令(701年)には、一夫一妻制があり重婚の罪があった。(参考

 しかし、貴族、将軍、天皇においても、「正室」を置くことで一夫一婦制の理想に沿いつつも、実質は一夫一婦多妾制をとっていた。

  一般のムラ社会の中では、夜這い婚が継続されていたとみられる。「夜這い婚」=「集団婚」であり、1対1の男女が独占的に婚姻関係を結ぶのではなく、特定 の共同体内の複数の男女が婚姻関係を結ぶものである。これはただの無秩序な乱婚ではなく、村落共同体を維持していくためにシステム化された婚姻制度であ り、性的規範である。そのシステムの詳細仕様は、地域によって多様である。(参考
 明治時代、欧州化の流れで政府から夜這い禁止令が出されたが、農村部では昭和初期まで行われていた。縄文の流れを汲む夜這いの特殊性は、外国人を驚かせたようである。
 ここまでで述べたとおり、日本において、一夫一婦制が明確に意識され始めたのは、せいぜい100~200年前なのである。日本人が採集を始めた1万年前からのスケールで見れば、日本人の一夫一婦婚の歴史は、たった1~2%なのだ。


 人類の婚姻史を改めて辿ってみると、恋愛や結婚、子作りへの認識に多少なりとも変化が生じるだろう。

 ■ 婚姻形態は、時代に応じて大きく変化してきた
 ■ 種族保存の戦略の下では、個々人は平等ではない
 ■ 人類は、非常に長い期間、広い地域で
   一夫一婦婚ではない婚姻形態で種族を守ってきた
 
 この事実は大きい。
 一夫一婦婚の思想が支配的である現代社会を過去の婚姻形態に戻すことは不可能だろう。
  ただ、現代社会の中で一夫一婦婚について、人々の性的充足という視点でも、種族保存という視点でも、何かミスマッチが起きているということに多くの人が気付き始めている。そろそろ何らかの変化が起きてもおかしくないし、もう変化させるべきだと思う。(フランスでは既に「パックス制度」という形で変化の兆候が現れている)
 特に、日本人にとって一夫一婦婚は、借り物の概念でしかない。それは美しいものであるし、パズルのピースが上手くはまるような気持ちの良い概念でもあるが、日本人の無意識に十全に浸透しうるものなのだろうかと思う。

 少子高齢化やあらゆる性的な問題について思考・議論するとき、旧来的な婚姻の概念に囚われていては根本的な問題解決策は見えてこないだろう。古来からの婚姻形態の流れを知り、種族保存の戦略は多様であることを知らなければ、思考の牢獄から脱することは出来ない。

(参考)
 :人類史全体のおおまかな流れについては、こちらを参考にしました。


人類婚姻史 ~宗教・思想の勃興 (約2600年前)~

 国家ができ、より多くの人が大きなコミュニティの中で生きることを選んだことで、 人々は理想(あるいは幻想)を共有し始め、宗教や思想が生まれた。
 西洋ではユダヤ教(後にキリスト教)が生まれる。非現実的で排他性の強い唯一絶対神に基づく世界観を構築。
 ユダヤ教では、結婚は神聖なものとされている。キリスト教の聖書においては、性が意識される結婚そのものを善しとしない記述はあるが、結婚儀式は神により男女が結びつけられたものとして行われる。これらの思想に基づき、比較的早くから一夫一婦婚が根付いた。

 東洋では儒教が生まれる。五常(仁、義、礼、智、信)にみるように、社会規範を軸とした教えであった。支配者の武力による覇道を批判し、徳によって人民を治めるべきとした。
 結婚観においては、一夫一婦多妾制とも称すべき体系をとっていた。妻群に格が与えられ、妻、妾、地位無き性愛対象の女性に分類された。







 「徳」の宗教である儒教が、このような婚姻形態を是としていたことは重要な事実だ。
 現代の欧米やその影響を受けた地域の人々にとって、一夫一婦婚が唯一絶対的に正しい男女関係のあり方だという認識が主流である。
次回は、人類史のスケールで日本の婚姻史の歩みを確認していく。


人類婚姻史 ~農耕小国家 (5500~2600年前頃)~

 遊牧民から蓄財の概念が生まれ、それが国家の形成へと繋がっていく。


 この後、人類に大きな影響を及ぼす宗教が生まれ、それが婚姻の概念にも影響を与えることとなる。それは、また次回。 


人類婚姻史 ~遊牧民の性(5500年前頃)~


狩猟採集とは異なる遊牧という生き方が生まれたのが約5500年前。



 遊牧民の生殖の様式の中から蓄財の概念が生まれた。
 同時に、それを他集団から奪おうという集団が現れた。これが戦争の起源である。
 5500年前、イラン高原(メソポタミアとインドの間の大高原)で、次いで中央アジア高原に連なる遊牧部族を介して、モンゴル高原(北方アジアの大草原)で、争いが起き始めた。
 遊牧部族は、優れた騎馬技術を武力として、長らくユーラシア大陸の覇権を握ることとなった。

 次回は、小国家が生まれ始める時代のお話。


人類婚姻史~採集部族の性 (1万年前)~

 前回説明した狩猟部族とは異なる道を選んだ採集部族について説明する。






 全ての男と女が結びついた状態である。
 狩猟部族と異なった形態をとることとなった原因は、生活様式の違いにある。

 「狩猟」は個人の身体能力の優劣で獲物の獲得量に差異が生まれ、男の優劣が意識されやすい。

 それに対して、「採集」は個人の能力よりは、多くの人手をかけ、協力しながら手分けして、食糧を探すという方法である。

 よって、狩猟部族はより優秀な男の遺伝子を選別する必要性が高かったが、採集部族は集団全体の規模を維持・拡大する為の生殖の道を選んだ。



 採集部族の女が性に開放的であることは、後に欧州の列強国が採集部族系の国を侵略した際に、しばしば確認されたという。現地の女は、突然やってきた白人をいとも簡単に性的に受け入れたという。

 現代でも、「日本人の女は簡単に体を許す」という認識をもつ外国人男性が多い。異論のある女性は多くいるだろうが、「欧米との文化比較」や「採集部族的な傾向」という視点では正しいのだろう。メタ認知のできる日本女性は、自らの本能の名残を理解し、自らを律しているが、一般的な日本女性は性に対して寛容な傾向があるのは確かだと思う。


 また、現代のアイドル文化からも採集部族の本能の残り香を感じることができる。東洋のアイドルは、おニャン子クラブ、ハロープロジェクト、AKB48のように「女性集団」の形式をとり、「男性集団」を受け入れている。個人よりも、集団であることに価値が生じているようだ。
  



 話を戻すと、この後遊牧という生活様式が生まれ、彼らが世界に大きな影響を与えることになる。その話は、また次回


人類婚姻史 ~狩猟部族の性(1万年前)~

 前回は、強い外圧に晒されていた時代の話をした。今回は、少しずつ技術を身に着け生存確率を伸ばしてきた時代の話で、特に狩猟部族について説明する。


 ボス集中婚時代からの違いは、全ての男に子孫を残す可能性が持たされており、集団の中で生殖に携わることができる男が複数人存在することが許される社会になったということだ。
 反対に、前時代から変わらないのは、生殖の可能性を保有していながら、結局生殖にありつくことができない男が相変わらずいることだ。

 外圧が弱まったことにより、男たちは集団を守ることだけでなく、他の男との違いを見せつけて如何に女から評価されるか、すなわち「モテる」ということに意識を傾ける余裕が生まれたのだ。
 東洋人に比べて、欧州・中東の人たちの自我が強いのはこうしたことが影響している可能性がある。

 次回は、採集部族について説明する。



人類婚姻史 ~サルからヒトへ(1万年以前)~

 現在の婚姻制度は、現代の人類が生殖や種族保存を保証する手段としてに適合しなくなってきていることに多くの人が気づき始めている。

 ここでは、人類の婚姻史を辿り、人類はどのように生殖や種族保存を実現してきたのか、一夫一婦制は本当に絶対的な男女関係の在り方なのか、といったことに迫っていきたい。性が絡むため、学校の歴史の授業では教わることのできない内容である

 さっそくだが、サルが地上に降りた時代から話を始める。






  集団の中で、生殖に携わるオスはボスのみで、その他のオスは、集団の安全と食糧の確保のために存在する。
 集団の全てのメスは、ボスと結ばれている。
 つがいを探し求めて彷徨い歩くような、非効率で危険な事はしない。そんな余裕はないのだ。
 この集中婚システムは、オスたちの保護の中で、ボスという優秀な遺伝子保有者が、多くの子宮を使って、子供を量産する、
という効率的なシステムだ。
 死が常に隣り合わせのような強い外圧の下で種族を絶やさないためは、これが最良のシステムなのだろう。

 ところが、その外圧が弱まると、男女関係の様相が変わり始める。







 人類が知能を高め、安全や食糧に関する問題解決が進むにつれて、外圧が弱まると、ボスによる集中婚が崩れ始めた。
 集団の規模や生活様式に合わせて、婚姻の形式を変化させたのだ。

 

 ここから、「狩猟部族」と「採集部族」で異なる形態をとり始める。



 次回は、狩猟部族について説明しよう。



2015年2月1日日曜日

テロと戦場ジャーナリズムの今後について考える

 ISIS(イスラム国)による後藤健二さん、湯川陽菜さん人質事件は、残酷な結果をむかえた。
ここで感情的になっては、テロリストの思う壺なので、冷静に今後の「テロと戦場ジャーナリズム」について考えなければならない。

 この問題について、現在の国内の議論は、
  「人命尊重!」「でも、ジャーナリズムも大事!」
 といった矛盾を抱えた状態だと思う。

 いわゆる「自己責任論」も国内の議論を混乱させている要因だが、「自己責任」の自負も無しに危険地域で活動しているジャーナリストは居ないだろうから議論の余地はないと考える。(逆に、「他者に責任を移転したジャーナリズム」とは何か? 企業あるいは政府に所属しながら取材をする者を指すことになるだろうか? そうした人は組織からの許可が下りない為、ISISのテリトリーには入らない)


■リスクとジャーナリズムのバランス
 ここで問題を整理したい。ジャーナリストが抱えるリスクは、自身の生命だけでなく、テロリストに交渉カードを与えてしまうという国際的な影響もある。その為、「リスク(人命を含む)」と「ジャーナリズム」を天秤にかけ、場合分けをしながら今後の方針を考えてみたい。

A.『リスク(人命) > ジャーナリズム』の場合

 リスクを回避する。すなわち、
  • 危険地域へ近づくことをジャーナリストも含め一切禁止する。
  • その上で、海外ジャーナリストの記事から、それなりの情報を得ることで納得する。
  • 日本人主体で情報収集する意義があるとしても、例えばトルコのような危険地域の近隣国のメディアと提携して取材を委託する等も考えられる。
B.『リスク(人命) < ジャーナリズム』の場合
 海外の力に頼ることなく「日本人自身が現地に入って取材すること」に意義があるとするならば、選択肢は大きく分けて2つだろう。

①リスクを許容する
 すなわち、今まで通りジャーナリスト自身の責任で取材を続ける。ジャーナリストが人質になった場合、日本政府は人質解放を強く訴えはするが、一切交渉には応じない。

②リスクを低減する方法を探り、取材方法を見直す
 例えば、取材は「現地の正規軍が帯同する場合に限る」といったことが考えられる。あるいは、ジャーナリスト団体(例えば、国境なき記者団)が共同で傭兵を雇って取材に帯同させることも考えられる。(取材活動の自由度が低下するデメリットはある)
 もっと良い方法はあるだろう。 

 日本の世論は人命とジャーナリズムのどちらを選択するのだろうか。今のところ、私の左耳には、ジャーナリズムを崇拝する声が大音量で聴こえている。


■感情ではなく戦略的な視座が必要

 生存問題を解決してしまった先進国の人々は、大した努力をしなくても生きることはできる。そのため、生命の危機に瀕した時に発せられる眩い生存エネルギーを感じることができなくなり、「生きる意味」に悩む。
 そんな中で、生存本能を掻き立てる方法の一つとして、「内戦、テロ、飢餓などで生存問題が未解決の地域に目が向ける」という行動が選択される場合がある。さらに、義憤に駆られ、自ら現地に行ってより大きなエネルギーを得たいと思う人も現れる。
 複雑なことに、危険な場所に向かう人々の無意識的な動機は自己の「生存本能の再確認」であるのに、それが、意識的な動機としての「正義感」という利他的感情で覆われてしまうのだ。(私見だが、リベラル系の人はこの種の正義感に感化されやすい)



 全てのジャーナリストがこのような自己の「危機感受志向」でシリアに向かっている訳ではないと思う。本当に、合理的でクリアな思考で、「行くべき」と判断している人もいるだろう。

 「危機感受志向」自体も、ジャーナリストも批判するつもりは一切ない。その上で、考えるべきは、戦略的な視座だ。
 テロリストも馬鹿ではないので、常に資金を得る方法や、捕まった仲間を取り返す方法、自らを示威する広報手段を戦略的に考えている。そんな時に、自分のテリトリーに無防備な外国人ジャーナリストがやってきたら、正に「鴨が葱を背負って来た」状態である。そうして、一テロリストが国際社会を揺るがす「交渉カード」を手に入れる。
 ジャーナリスト自身が「自己責任で行く」と言っても、一たびテロリストの人質になってしまえば、日本政府や国民は大きく揺さぶられることになり、他国にまでそれが波及する。テロリストが常識を超えた方法で、交渉を図ることも念頭に入れる必要がある。自身の意思とは無関係に、テロリストに手を貸すことになってしまうのだ。
(言いたくないけれど、テロリストの残虐性がエスカレートしていった場合、生きたまま人質の身体を少しずつ損傷させることで、こちらに揺さぶりをかけてくることも考えられる。そのとき、日本政府や国民は正気を保って居られるだろうか……)


■ジャーナリストが自らの価値を示す時

 だから、ジャーナリスト側も「義憤」ではなく、「戦略的」に考える必要がある。
 自らの動機を改めて見つめ直し、ジャーナリズムの生み出す価値を維持しつつ、自身がテロリストの交渉カードになってしまうリスクをどのように低減するのかを考える努力をしなければならない。(現在もある程度考慮しているだろうが、何らかのブレイクスルーが必要だろう)
 ジャーナリストは決して利己的な感情で現地に行くわけではなく、理性的かつ高い目的意識をもって取材を行っている。本人はそのつもりでも、納得できない人が少なからず存在することも事実。ジャーナリスト自身が自らの価値を明確に示すべき時がやって来たのかもしれない。