2015年2月8日日曜日

人類婚姻史 ~狩猟部族の性(1万年前)~

 前回は、強い外圧に晒されていた時代の話をした。今回は、少しずつ技術を身に着け生存確率を伸ばしてきた時代の話で、特に狩猟部族について説明する。


 ボス集中婚時代からの違いは、全ての男に子孫を残す可能性が持たされており、集団の中で生殖に携わることができる男が複数人存在することが許される社会になったということだ。
 反対に、前時代から変わらないのは、生殖の可能性を保有していながら、結局生殖にありつくことができない男が相変わらずいることだ。

 外圧が弱まったことにより、男たちは集団を守ることだけでなく、他の男との違いを見せつけて如何に女から評価されるか、すなわち「モテる」ということに意識を傾ける余裕が生まれたのだ。
 東洋人に比べて、欧州・中東の人たちの自我が強いのはこうしたことが影響している可能性がある。

 次回は、採集部族について説明する。



人類婚姻史 ~サルからヒトへ(1万年以前)~

 現在の婚姻制度は、現代の人類が生殖や種族保存を保証する手段としてに適合しなくなってきていることに多くの人が気づき始めている。

 ここでは、人類の婚姻史を辿り、人類はどのように生殖や種族保存を実現してきたのか、一夫一婦制は本当に絶対的な男女関係の在り方なのか、といったことに迫っていきたい。性が絡むため、学校の歴史の授業では教わることのできない内容である

 さっそくだが、サルが地上に降りた時代から話を始める。






  集団の中で、生殖に携わるオスはボスのみで、その他のオスは、集団の安全と食糧の確保のために存在する。
 集団の全てのメスは、ボスと結ばれている。
 つがいを探し求めて彷徨い歩くような、非効率で危険な事はしない。そんな余裕はないのだ。
 この集中婚システムは、オスたちの保護の中で、ボスという優秀な遺伝子保有者が、多くの子宮を使って、子供を量産する、
という効率的なシステムだ。
 死が常に隣り合わせのような強い外圧の下で種族を絶やさないためは、これが最良のシステムなのだろう。

 ところが、その外圧が弱まると、男女関係の様相が変わり始める。







 人類が知能を高め、安全や食糧に関する問題解決が進むにつれて、外圧が弱まると、ボスによる集中婚が崩れ始めた。
 集団の規模や生活様式に合わせて、婚姻の形式を変化させたのだ。

 

 ここから、「狩猟部族」と「採集部族」で異なる形態をとり始める。



 次回は、狩猟部族について説明しよう。



2015年2月1日日曜日

テロと戦場ジャーナリズムの今後について考える

 ISIS(イスラム国)による後藤健二さん、湯川陽菜さん人質事件は、残酷な結果をむかえた。
ここで感情的になっては、テロリストの思う壺なので、冷静に今後の「テロと戦場ジャーナリズム」について考えなければならない。

 この問題について、現在の国内の議論は、
  「人命尊重!」「でも、ジャーナリズムも大事!」
 といった矛盾を抱えた状態だと思う。

 いわゆる「自己責任論」も国内の議論を混乱させている要因だが、「自己責任」の自負も無しに危険地域で活動しているジャーナリストは居ないだろうから議論の余地はないと考える。(逆に、「他者に責任を移転したジャーナリズム」とは何か? 企業あるいは政府に所属しながら取材をする者を指すことになるだろうか? そうした人は組織からの許可が下りない為、ISISのテリトリーには入らない)


■リスクとジャーナリズムのバランス
 ここで問題を整理したい。ジャーナリストが抱えるリスクは、自身の生命だけでなく、テロリストに交渉カードを与えてしまうという国際的な影響もある。その為、「リスク(人命を含む)」と「ジャーナリズム」を天秤にかけ、場合分けをしながら今後の方針を考えてみたい。

A.『リスク(人命) > ジャーナリズム』の場合

 リスクを回避する。すなわち、
  • 危険地域へ近づくことをジャーナリストも含め一切禁止する。
  • その上で、海外ジャーナリストの記事から、それなりの情報を得ることで納得する。
  • 日本人主体で情報収集する意義があるとしても、例えばトルコのような危険地域の近隣国のメディアと提携して取材を委託する等も考えられる。
B.『リスク(人命) < ジャーナリズム』の場合
 海外の力に頼ることなく「日本人自身が現地に入って取材すること」に意義があるとするならば、選択肢は大きく分けて2つだろう。

①リスクを許容する
 すなわち、今まで通りジャーナリスト自身の責任で取材を続ける。ジャーナリストが人質になった場合、日本政府は人質解放を強く訴えはするが、一切交渉には応じない。

②リスクを低減する方法を探り、取材方法を見直す
 例えば、取材は「現地の正規軍が帯同する場合に限る」といったことが考えられる。あるいは、ジャーナリスト団体(例えば、国境なき記者団)が共同で傭兵を雇って取材に帯同させることも考えられる。(取材活動の自由度が低下するデメリットはある)
 もっと良い方法はあるだろう。 

 日本の世論は人命とジャーナリズムのどちらを選択するのだろうか。今のところ、私の左耳には、ジャーナリズムを崇拝する声が大音量で聴こえている。


■感情ではなく戦略的な視座が必要

 生存問題を解決してしまった先進国の人々は、大した努力をしなくても生きることはできる。そのため、生命の危機に瀕した時に発せられる眩い生存エネルギーを感じることができなくなり、「生きる意味」に悩む。
 そんな中で、生存本能を掻き立てる方法の一つとして、「内戦、テロ、飢餓などで生存問題が未解決の地域に目が向ける」という行動が選択される場合がある。さらに、義憤に駆られ、自ら現地に行ってより大きなエネルギーを得たいと思う人も現れる。
 複雑なことに、危険な場所に向かう人々の無意識的な動機は自己の「生存本能の再確認」であるのに、それが、意識的な動機としての「正義感」という利他的感情で覆われてしまうのだ。(私見だが、リベラル系の人はこの種の正義感に感化されやすい)



 全てのジャーナリストがこのような自己の「危機感受志向」でシリアに向かっている訳ではないと思う。本当に、合理的でクリアな思考で、「行くべき」と判断している人もいるだろう。

 「危機感受志向」自体も、ジャーナリストも批判するつもりは一切ない。その上で、考えるべきは、戦略的な視座だ。
 テロリストも馬鹿ではないので、常に資金を得る方法や、捕まった仲間を取り返す方法、自らを示威する広報手段を戦略的に考えている。そんな時に、自分のテリトリーに無防備な外国人ジャーナリストがやってきたら、正に「鴨が葱を背負って来た」状態である。そうして、一テロリストが国際社会を揺るがす「交渉カード」を手に入れる。
 ジャーナリスト自身が「自己責任で行く」と言っても、一たびテロリストの人質になってしまえば、日本政府や国民は大きく揺さぶられることになり、他国にまでそれが波及する。テロリストが常識を超えた方法で、交渉を図ることも念頭に入れる必要がある。自身の意思とは無関係に、テロリストに手を貸すことになってしまうのだ。
(言いたくないけれど、テロリストの残虐性がエスカレートしていった場合、生きたまま人質の身体を少しずつ損傷させることで、こちらに揺さぶりをかけてくることも考えられる。そのとき、日本政府や国民は正気を保って居られるだろうか……)


■ジャーナリストが自らの価値を示す時

 だから、ジャーナリスト側も「義憤」ではなく、「戦略的」に考える必要がある。
 自らの動機を改めて見つめ直し、ジャーナリズムの生み出す価値を維持しつつ、自身がテロリストの交渉カードになってしまうリスクをどのように低減するのかを考える努力をしなければならない。(現在もある程度考慮しているだろうが、何らかのブレイクスルーが必要だろう)
 ジャーナリストは決して利己的な感情で現地に行くわけではなく、理性的かつ高い目的意識をもって取材を行っている。本人はそのつもりでも、納得できない人が少なからず存在することも事実。ジャーナリスト自身が自らの価値を明確に示すべき時がやって来たのかもしれない。

2014年10月15日水曜日

『イスラム国』VS『キリスト国』


イスラム国(ISIL)に世界中から若者が集結している今の現象は、
「破滅的な人」、「主流からあぶれた人」、
「暴力執行による有能感を求める人」が集合し、
彼ら自身が各々の自我の障害と向き合っている状況と言える。
この現象は決して止められない。
人類が社会的動物である限り、自我の発達や
自我を社会に適応させることに失敗する人が絶えることはないからだ。
イスラム国を壊滅させても、名前の異なる別の反社会的組織が生まれ、
そこに人々が集合する。

とはいえ放っておけば、組織が益々大きくなり、
核武装をした時点で暴力国家が成立するだろう。

主流世界へのチャレンジが始まり、現在の世界情勢を変更したい
と考えているロシア、中国といった国々が便乗する事態になれば、
いよいよ民主主義、資本主義をポリシーとする主流世界の秩序は
不安定なものになるだろう。

解決方法があるとすれば、彼らのような
自我に障害を抱える者たちの受け入れ口を予め整備し、
コントロールするシステムを構築することだろう。
その一例として、少し大胆な構想を提示してみる。
現実性やモラルは一旦横に置いておくので、悪しからず。



提案「イスラム国と対立するキリスト国(仮)を創設する」


① 「対テロ連合義勇軍」を設立する。
  反体制であり、主流と逆行するという意味での「悪」の象徴である
 イスラム国と対抗する、 「善なる組織」を作り、
 世界から義勇兵を募る。
  彼らは最前線で戦い、正規軍は後方支援に回る。
   効果:正規軍の人的・経済的消耗を軽減できる。
 (戦争の外注委託の事例は現実に、アメリカ軍による民間軍事会社活用や
  フランスの外国人部隊に見られる。)

② 俗称を「キリスト国」とする
  組織名は分かり易く、また扇情的であった方が、
  明確な対立構造を演出できる。
  効果:人々の耳目を集め、人も金も集まる。
  
③ 広く一般からの投資を受け入れる
   イスラム国とキリスト国を単純に武力衝突させるだけでなく、
   人と金を競合させる。
   効果:暴力によって自我の問題を解決しようとする人々の力や金を、
       特定の組織に一極集中させないようにする。

④ イスラム国とキリスト国との戦闘を生中継する
  放映権収入をスポンサーへの配当や義勇兵への報酬に当てる。
  効果:キリスト国が経済的に自立し、継続的な活動となる。

⑤ イスラム国を完全には壊滅させない
   イスラム国側の戦力が落ち過ぎないよう、攻撃を調整する。
   また、キリスト国の義勇兵を英雄として演出しつつも、
   イスラム国側の人物や兵力も紹介する。
   イスラム国もある程度魅力的なものとして描き、
   人と金の流入を維持する。
  効果:暴力を求める人々の行き場がなくなることを防ぐ。

このようにして、自我に問題を抱えた者たちに新たな選択肢を与え、
相互に対立させ、切り離された別世界の中で暴力を消費させつつ、
現状の主流世界は秩序を保ち資本も循環する
サスティナブル(持続可能な)システムだ。


 戦争は、望まない人にとっては確かに悪であるが、戦場に行きたくて居ても立っても居られない人もいる。そうした人たちが閉じた世界の中で戦うことは、哲学的に思考したときに、悪だと言い切れるだろうか。


2014年10月14日火曜日

『イスラム国』に集結する若者の心理

 イスラム国(ISIL)に世界中から義勇兵が加わりつつある。
 CIAはその戦力を2万から3.15万人と見込んでおり、そのうちの約1割が外国人である。
 イギリスから500名、ドイツから400名が参加しているとみられており、日本においても先日、学生がイスラム国への参加を試みたとして警察から事情聴取されたが、軍事評論家の田母神氏によれば、既に9名の日本人がイスラム国に参加しているという。

 これらの外国人は、必ずしもイスラム教や中東情勢に興味があるわけではないらしい。イスラム過激派に加わる者は、不遇な生活環境や家庭的に恵まれない若者が多かったとされるが、現在は中流・富裕層も多くいるとされる。

何故、彼らは戦場に身を置きたがるのか。ヒントはいくつかある。

・事情聴取を受けた大学生の発言(参考
「日本での社会的な地位などに価値を見い出せなくなってシリアに行きたいと思い、大学などすべての生活を投げ捨ててきた。イスラム教については、宗教を勉強している中で少し学んだ程度で、シリアなど中東情勢についてもあまり知らないが、戦場など特異なものに興味があり、感じてみたいと思った。『イスラム国』が発信する教えに共鳴したわけではなく、そうした宗教の考えのもとの国があったら、おもしろいだろうなと思った。戦場で自分が死ぬことは大した問題ではないと思う。」
「義勇兵になれないなら自殺する」

・シリア反政府組織に参加した元自衛官、鵜澤佳史氏(参考
「小学校の時に、いじめに遭いまして。生と死の極限状況に身を置けば、自分の生きる意味が違った視点から見られるかなと。」

これらから推測されるのは、下記3点のような心理だろう。

(1)自殺行為の代替(=自我の破綻)
 自分とこの世界が相容れないのなら、死ぬしかない。
 しかし、自分で自分を殺すこともできない。
 死の匂いのする処へ行きたい。リスクに身を晒したい。

(2)自己と相容れない外的世界に対する復讐(=自我の適応失敗)
 この世界は自分を認めてくれない。自分を必要としていない。
 自分の存在を脅かす。
 だから、身の回りの主流社会とは異なる立場に身を置き、対決しなければ、
 自分は生きられない。
 (例:勉強が出来ることを善とする学校は、勉強のできない自分の価値を認めない。
    だから「不良」になって、秩序を否定し反抗しなければ、自分の存在が消えてしまう。)

(3)暴力を執行する側に立てるという強烈な自己効力感の追求(=自我肥大)
 武力組織に加わり、自分が武器を手にすることで、
 世界に恐怖を与えることが出来る。
 自分はなんて強いのだろう。自分は無力などではない。
 外界への影響力持つことが出来る。
 そうして、世界と繋がることが出来る。
 (一部の富豪がイスラム国に投資しているとのことだが、
  彼らはこのカテゴリーに属するだろう)

 (1)~(3)のどれか一つであったり、複数が綯い交ぜになった状態だろう。
これは、多くの自我が未発達な時期の若者や主流社会からあぶれた者たちが、
多かれ少なかれ抱く感情である。
軽度なものであれば、普通の人にも日常的に湧きおこる感情だ。
就職面接に失敗したら、(1)か(2)に近い心理的状況に陥るのも自然である。

 こうした者が生まれるのは、人類が社会的な生活を営んでいる以上防ぐことのできない、普遍的な現象と言ってよいだろう。
 人間が画期的な思想を見出し、ユートピア的な世界を創造しない限り、過去も、現在も、未来もずっと同じことが繰り返される。全ての人が平等に幸福な時代がやって来るまでは……。

 以前はこうしたはみ出し者たちの一部は、ヤクザが受け入れていた。
現代はあらゆるものがグローバル化しており、イスラム国もグローバル化したヤクザという見方ができる。
 正規の軍隊や、脱退するのに指を切り落とさなければならないヤクザに比べ、手軽に本格的な武力集団に参加できるのだから、イスラム国は社会から弾かれた者たちにとって垂涎の選択肢なのだ。
 寧ろ、他に選択肢が無い。正に、「イスラム国に入れなければ死ぬしかない」なのだ。

 もっとも、実際戦闘経験の無い外国人がISILに入ったところで、雑用係を任されるか、訳も分からず前線に送り込まれて命を落とすことになる公算が高い。



2014年7月5日土曜日

サッカー日本代表の自我②


日本サッカーがぶつかっている壁を打ち破る為に
必要なのは幼少期からの教育だろう。
日本社会に適応させる作業ではなく、
グローバルスタンダードな心を育てる教育をしなければならない。
グローバルスタンダードというのは、英語は勿論だが、
 ①自分の意見を持ち、他者に伝えること
   (すなわち、自我の確立にもつながる)
 ②自国に対する自尊心を育てること
がポイントとなるだろう。

最近のサッカーは、スペインを代表とするポゼッションサッカーが主流になっていた。
自分たちのリズムでボールを細かくつなぎ、徐々に相手陣内へ入り、
チャンスを探っていくのだ。
しかし、今大会ではカウンターサッカーをするチームが目立っている。
しっかり守り、相手を自陣に引き込んでボールを奪い、相手の守備が整う前に
少ないパス、あるいはロングボールでチャンスを作る。
個人能力に優れる選手がいることが前提だが、
リスクは小さく、チャンスを増やせる戦略だ。

サッカーのトレンドは変わる。
今大会のトレンドの変化も誰かの意図によって生まれたのではなく、
勝利への強いモチベーションに促され、個々の選手が必死に考え、
行動した結果の産物だ。
W杯でトレンドの変化が起きやすいのは、このような現象が起こるからだろう。
W杯本番はさながら「新しいサッカー」の実験場なのだ。

次の大会では、カウンターサッカーかあるいは
それを打ち破る別の戦略が主流になっているかもしれない。
事前に決めた作戦が通用しない時、個々の選手が自分で考え、
自信を持って状況に応じたプレイをすることが日本の選手にも求められる。

こうしたことはサッカーだけでなく、他のスポーツや、
一般社会にも当てはまることだろう。


別の可能性としては、逆に自我を捨て、
11人が1つの個体であるかのように振舞えるようになるまで、
組織力を高め、パスだけでキーパーを含めた相手チーム全員を
抜き切るようなサッカーだ。
こちらの方が日本人には合っているのかもしれないが、
鳥や魚や蜂の群れのような状態にまで到達しなければならないだろう。


サッカーを強くすることだけに特化した、
飛躍した提案をするとするならばどんなことだろうか。

①キリスト教を日本の国教とする
  ⇒ 自我や個人尊重の概念が育つ

②キリスト教国の外国人移民を増やす
  ⇒ いわば、「自我のアウトソース」。また、強国は人種が多様である。

③日本の公用語を英語にする
  ⇒ 英語は合理的な言語。そして、言語は「思考」のベースとなるだけでなく、
    「無意識」のベースともなる。合理的な心を備えれば、
    情緒的な行動が減少し、国際社会での成功確率が高まるだろう。

④日本人の緊張遺伝子を遺伝子操作で変えてしまう。
  ⇒ 今後の医療の発達に期待





2014年6月26日木曜日

サッカー日本代表の自我①

ブラジルワールドカップでの日本代表の敗因を
これから様々なサッカー解説者が分析するだろう。
しかし、スポーツ競技としての戦術という視座で考えるには限界が来ている。


ワールドカップ本番は勝負の世界。
どれだけ良い準備をしても、どちらに転ぶかは分からない。
サッカーは元来、必ずしも実力通りの結果にならないことが多い競技なのだ。

勝ち負けや得点差は問題ではない。


重要なポイントは、サッカーに限らず、日本人の多くに見られる
  本番で力が抜けてしまうこと、
  頭が真っ白になってしまうこと、
  パニックになってしまうこと、
といった特徴だ。

この原因は、様々な方向から考えられる。

遺伝学的には、緊張遺伝子を持つ割合が日本人には多いという説明ができる。

しかし、それよりも、集団主義社会で生活する日本人の自我の確立が
不十分であるという、心理学的な側面から考える必要がある。
自我が弱ければ、チームの戦略の中での自分の為すべき仕事が
判らなくなってしまう。
決め手となる相手の意表を突くシュートやパス、相手を置き去りにするドリブルを、
主体的に狙いをもって仕掛けていく精神力が弱くなる。
試合の行方を決める重要な場面は、必ず人対人の駆け引きだ。
瞬間的な創造性を発揮し、相手を出し抜いて勝たなければならない。
この発想力は誰かに頼っていても得られないのだ。
サッカー解説者がよく使う「したたかさが足りない」や
「最後のアイデアが足りない」という曖昧な表現の裏にある真因は、
これではないかと思う。


少し視点をずらすと、宗教学的にも説明できる。
ワールドカップ優勝国の全てがキリスト教国であり、
ベスト3の国々も殆どキリスト教国である。
実のところ、キリスト教と自我の確立には深い関連がある。
詳細を説明するには長大な字数を要するので、ここでは省略するが、
キリスト教の教典の中には、人の心の発達、
とりわけ自我を確立するイメージが満載なのだ。
そうしたイメージに多く触れている人々は、
それを自らの自我の確立の一助とすることができるのだ。
確固とした自我をもった人々は、論理的に思考し、合理的に行動できる。
歴史的には不合理な過ちも犯してきたキリスト教徒だが、
自然科学の研究や経済の発展を牽引してきたのもキリスト教徒だ。
自我は論理性の牙城なのだ。

一方、イスラム教も、元を辿ればキリスト教と同じルーツをもつが、
熱心に祈る姿は明らかに「無我」の属性をもっている。

この説に関しては、
「キリスト教圏とサッカーが盛んな地域が一致している」
だからだと短絡的に説明することもできるが、もしかすると、
「キリスト教圏だからサッカーが盛んである」
と言うこともできるかもしれない。(さらなる分析は必要だが)



別の視点で、社会的、歴史的背景の関連もある。
今大会開催国ブラジルの初戦、国歌斉唱での出来事だ。

原曲が長すぎるブラジル国歌は、短縮版の伴奏が用意されており、
観客や選手も省略した国歌を歌うのが一般的だ。
しかし、開催国での初戦ということもあり、観客も選手も感情が昂ぶっているため、
伴奏が終わっても、一層大きな声で高らかに歌い続け、全曲を歌い上げたのだ。
(厳密には、2013年コンフェデレーションズカップ辺りから始まった習慣だが)

~ブラジル国歌~
イピランガの静かな岸辺は聞いた。
轟く人々の雄たけびを。
そして自由の太陽は、
この瞬間に明るき光を導いて、
祖国の空を照らし出す。
我らの強い腕で得た平等の証。
汝の胸に、おお、自由。
我等の心は死をも恐れない。
おお最愛の麗しき祖国、栄えあれ、栄えあれ。
ブラジル、それは荘厳な夢。
愛と希望の鮮やかな光が地上に降り注ぐ。
清く微笑む汝の美しき空に、
南十字星はまばゆく輝く。
雄大な大地、それは美しく。
それは強く、恐れを知らぬ巨人だ。
そして汝の偉大さが、汝の子孫の未来を照らす。
おお、我等が崇める大地。
数多き千の国の中で、愛しき祖国、汝はブラジル。
国の子の優しき母。
最愛の祖国ブラジル。

素晴らしく穏やかな世界は永遠に広がる。
さざめく海と大空からは、光が差し込む。
ブラジル、汝はきらめくアメリカの輝き。
新たなる世界は、太陽に照らし出され、
汝の微笑み、いとしき大平原は、
どこよりも多く、美しき花々で満ち溢れ、
我等が森は、数多き生命で満ち溢れ、
汝の胸に抱かれた我等は、慈愛に満ちている。
おお最愛の祖国、栄えあれ、栄えあれ。
ブラジルよ、汝の永遠の証として、
汝の示す、星々が散る旗を持たんことを。
旗が記す月桂樹の緑が、
未来の平和と過去の栄光を語らんことを。
されども汝が正義の名の元で強く憤る時には、
汝の息子は戦いから逃げず、
汝を崇める者が死を恐れないことを見るだろう。
おお、我等が崇める大地。
数多き千の国の中で、愛しき祖国、汝はブラジル。
国の子の優しき母。
最愛の祖国ブラジル。


郷土への愛情と自尊心に満ちた歌だ。

ネイマールを含め、何人かのブラジル選手や観客の目に涙が浮かんでいた。
自らのベースである祖国を愛する心は、自分を信じる力となり、
自我に心的エネルギーを注ぎ込む。
これは単なる情緒的な話ではなく、心理学的事実だ。

こうした「普通の国々」比べて、日本人はどうか。
祖国を愛する心は未発達だ。
国歌や国旗にどこか後ろめたさがあるように見える。
(勿論、全員ではないが、傾向として)


では、どうすれば、日本が変わるのか、だが、長くなってしまったので、次回に続く・・・