2015年2月8日日曜日

人類婚姻史 ~宗教・思想の勃興 (約2600年前)~

 国家ができ、より多くの人が大きなコミュニティの中で生きることを選んだことで、 人々は理想(あるいは幻想)を共有し始め、宗教や思想が生まれた。
 西洋ではユダヤ教(後にキリスト教)が生まれる。非現実的で排他性の強い唯一絶対神に基づく世界観を構築。
 ユダヤ教では、結婚は神聖なものとされている。キリスト教の聖書においては、性が意識される結婚そのものを善しとしない記述はあるが、結婚儀式は神により男女が結びつけられたものとして行われる。これらの思想に基づき、比較的早くから一夫一婦婚が根付いた。

 東洋では儒教が生まれる。五常(仁、義、礼、智、信)にみるように、社会規範を軸とした教えであった。支配者の武力による覇道を批判し、徳によって人民を治めるべきとした。
 結婚観においては、一夫一婦多妾制とも称すべき体系をとっていた。妻群に格が与えられ、妻、妾、地位無き性愛対象の女性に分類された。







 「徳」の宗教である儒教が、このような婚姻形態を是としていたことは重要な事実だ。
 現代の欧米やその影響を受けた地域の人々にとって、一夫一婦婚が唯一絶対的に正しい男女関係のあり方だという認識が主流である。
次回は、人類史のスケールで日本の婚姻史の歩みを確認していく。


人類婚姻史 ~農耕小国家 (5500~2600年前頃)~

 遊牧民から蓄財の概念が生まれ、それが国家の形成へと繋がっていく。


 この後、人類に大きな影響を及ぼす宗教が生まれ、それが婚姻の概念にも影響を与えることとなる。それは、また次回。 


人類婚姻史 ~遊牧民の性(5500年前頃)~


狩猟採集とは異なる遊牧という生き方が生まれたのが約5500年前。



 遊牧民の生殖の様式の中から蓄財の概念が生まれた。
 同時に、それを他集団から奪おうという集団が現れた。これが戦争の起源である。
 5500年前、イラン高原(メソポタミアとインドの間の大高原)で、次いで中央アジア高原に連なる遊牧部族を介して、モンゴル高原(北方アジアの大草原)で、争いが起き始めた。
 遊牧部族は、優れた騎馬技術を武力として、長らくユーラシア大陸の覇権を握ることとなった。

 次回は、小国家が生まれ始める時代のお話。


人類婚姻史~採集部族の性 (1万年前)~

 前回説明した狩猟部族とは異なる道を選んだ採集部族について説明する。






 全ての男と女が結びついた状態である。
 狩猟部族と異なった形態をとることとなった原因は、生活様式の違いにある。

 「狩猟」は個人の身体能力の優劣で獲物の獲得量に差異が生まれ、男の優劣が意識されやすい。

 それに対して、「採集」は個人の能力よりは、多くの人手をかけ、協力しながら手分けして、食糧を探すという方法である。

 よって、狩猟部族はより優秀な男の遺伝子を選別する必要性が高かったが、採集部族は集団全体の規模を維持・拡大する為の生殖の道を選んだ。



 採集部族の女が性に開放的であることは、後に欧州の列強国が採集部族系の国を侵略した際に、しばしば確認されたという。現地の女は、突然やってきた白人をいとも簡単に性的に受け入れたという。

 現代でも、「日本人の女は簡単に体を許す」という認識をもつ外国人男性が多い。異論のある女性は多くいるだろうが、「欧米との文化比較」や「採集部族的な傾向」という視点では正しいのだろう。メタ認知のできる日本女性は、自らの本能の名残を理解し、自らを律しているが、一般的な日本女性は性に対して寛容な傾向があるのは確かだと思う。


 また、現代のアイドル文化からも採集部族の本能の残り香を感じることができる。東洋のアイドルは、おニャン子クラブ、ハロープロジェクト、AKB48のように「女性集団」の形式をとり、「男性集団」を受け入れている。個人よりも、集団であることに価値が生じているようだ。
  



 話を戻すと、この後遊牧という生活様式が生まれ、彼らが世界に大きな影響を与えることになる。その話は、また次回


人類婚姻史 ~狩猟部族の性(1万年前)~

 前回は、強い外圧に晒されていた時代の話をした。今回は、少しずつ技術を身に着け生存確率を伸ばしてきた時代の話で、特に狩猟部族について説明する。


 ボス集中婚時代からの違いは、全ての男に子孫を残す可能性が持たされており、集団の中で生殖に携わることができる男が複数人存在することが許される社会になったということだ。
 反対に、前時代から変わらないのは、生殖の可能性を保有していながら、結局生殖にありつくことができない男が相変わらずいることだ。

 外圧が弱まったことにより、男たちは集団を守ることだけでなく、他の男との違いを見せつけて如何に女から評価されるか、すなわち「モテる」ということに意識を傾ける余裕が生まれたのだ。
 東洋人に比べて、欧州・中東の人たちの自我が強いのはこうしたことが影響している可能性がある。

 次回は、採集部族について説明する。



人類婚姻史 ~サルからヒトへ(1万年以前)~

 現在の婚姻制度は、現代の人類が生殖や種族保存を保証する手段としてに適合しなくなってきていることに多くの人が気づき始めている。

 ここでは、人類の婚姻史を辿り、人類はどのように生殖や種族保存を実現してきたのか、一夫一婦制は本当に絶対的な男女関係の在り方なのか、といったことに迫っていきたい。性が絡むため、学校の歴史の授業では教わることのできない内容である

 さっそくだが、サルが地上に降りた時代から話を始める。






  集団の中で、生殖に携わるオスはボスのみで、その他のオスは、集団の安全と食糧の確保のために存在する。
 集団の全てのメスは、ボスと結ばれている。
 つがいを探し求めて彷徨い歩くような、非効率で危険な事はしない。そんな余裕はないのだ。
 この集中婚システムは、オスたちの保護の中で、ボスという優秀な遺伝子保有者が、多くの子宮を使って、子供を量産する、
という効率的なシステムだ。
 死が常に隣り合わせのような強い外圧の下で種族を絶やさないためは、これが最良のシステムなのだろう。

 ところが、その外圧が弱まると、男女関係の様相が変わり始める。







 人類が知能を高め、安全や食糧に関する問題解決が進むにつれて、外圧が弱まると、ボスによる集中婚が崩れ始めた。
 集団の規模や生活様式に合わせて、婚姻の形式を変化させたのだ。

 

 ここから、「狩猟部族」と「採集部族」で異なる形態をとり始める。



 次回は、狩猟部族について説明しよう。



2015年2月1日日曜日

テロと戦場ジャーナリズムの今後について考える

 ISIS(イスラム国)による後藤健二さん、湯川陽菜さん人質事件は、残酷な結果をむかえた。
ここで感情的になっては、テロリストの思う壺なので、冷静に今後の「テロと戦場ジャーナリズム」について考えなければならない。

 この問題について、現在の国内の議論は、
  「人命尊重!」「でも、ジャーナリズムも大事!」
 といった矛盾を抱えた状態だと思う。

 いわゆる「自己責任論」も国内の議論を混乱させている要因だが、「自己責任」の自負も無しに危険地域で活動しているジャーナリストは居ないだろうから議論の余地はないと考える。(逆に、「他者に責任を移転したジャーナリズム」とは何か? 企業あるいは政府に所属しながら取材をする者を指すことになるだろうか? そうした人は組織からの許可が下りない為、ISISのテリトリーには入らない)


■リスクとジャーナリズムのバランス
 ここで問題を整理したい。ジャーナリストが抱えるリスクは、自身の生命だけでなく、テロリストに交渉カードを与えてしまうという国際的な影響もある。その為、「リスク(人命を含む)」と「ジャーナリズム」を天秤にかけ、場合分けをしながら今後の方針を考えてみたい。

A.『リスク(人命) > ジャーナリズム』の場合

 リスクを回避する。すなわち、
  • 危険地域へ近づくことをジャーナリストも含め一切禁止する。
  • その上で、海外ジャーナリストの記事から、それなりの情報を得ることで納得する。
  • 日本人主体で情報収集する意義があるとしても、例えばトルコのような危険地域の近隣国のメディアと提携して取材を委託する等も考えられる。
B.『リスク(人命) < ジャーナリズム』の場合
 海外の力に頼ることなく「日本人自身が現地に入って取材すること」に意義があるとするならば、選択肢は大きく分けて2つだろう。

①リスクを許容する
 すなわち、今まで通りジャーナリスト自身の責任で取材を続ける。ジャーナリストが人質になった場合、日本政府は人質解放を強く訴えはするが、一切交渉には応じない。

②リスクを低減する方法を探り、取材方法を見直す
 例えば、取材は「現地の正規軍が帯同する場合に限る」といったことが考えられる。あるいは、ジャーナリスト団体(例えば、国境なき記者団)が共同で傭兵を雇って取材に帯同させることも考えられる。(取材活動の自由度が低下するデメリットはある)
 もっと良い方法はあるだろう。 

 日本の世論は人命とジャーナリズムのどちらを選択するのだろうか。今のところ、私の左耳には、ジャーナリズムを崇拝する声が大音量で聴こえている。


■感情ではなく戦略的な視座が必要

 生存問題を解決してしまった先進国の人々は、大した努力をしなくても生きることはできる。そのため、生命の危機に瀕した時に発せられる眩い生存エネルギーを感じることができなくなり、「生きる意味」に悩む。
 そんな中で、生存本能を掻き立てる方法の一つとして、「内戦、テロ、飢餓などで生存問題が未解決の地域に目が向ける」という行動が選択される場合がある。さらに、義憤に駆られ、自ら現地に行ってより大きなエネルギーを得たいと思う人も現れる。
 複雑なことに、危険な場所に向かう人々の無意識的な動機は自己の「生存本能の再確認」であるのに、それが、意識的な動機としての「正義感」という利他的感情で覆われてしまうのだ。(私見だが、リベラル系の人はこの種の正義感に感化されやすい)



 全てのジャーナリストがこのような自己の「危機感受志向」でシリアに向かっている訳ではないと思う。本当に、合理的でクリアな思考で、「行くべき」と判断している人もいるだろう。

 「危機感受志向」自体も、ジャーナリストも批判するつもりは一切ない。その上で、考えるべきは、戦略的な視座だ。
 テロリストも馬鹿ではないので、常に資金を得る方法や、捕まった仲間を取り返す方法、自らを示威する広報手段を戦略的に考えている。そんな時に、自分のテリトリーに無防備な外国人ジャーナリストがやってきたら、正に「鴨が葱を背負って来た」状態である。そうして、一テロリストが国際社会を揺るがす「交渉カード」を手に入れる。
 ジャーナリスト自身が「自己責任で行く」と言っても、一たびテロリストの人質になってしまえば、日本政府や国民は大きく揺さぶられることになり、他国にまでそれが波及する。テロリストが常識を超えた方法で、交渉を図ることも念頭に入れる必要がある。自身の意思とは無関係に、テロリストに手を貸すことになってしまうのだ。
(言いたくないけれど、テロリストの残虐性がエスカレートしていった場合、生きたまま人質の身体を少しずつ損傷させることで、こちらに揺さぶりをかけてくることも考えられる。そのとき、日本政府や国民は正気を保って居られるだろうか……)


■ジャーナリストが自らの価値を示す時

 だから、ジャーナリスト側も「義憤」ではなく、「戦略的」に考える必要がある。
 自らの動機を改めて見つめ直し、ジャーナリズムの生み出す価値を維持しつつ、自身がテロリストの交渉カードになってしまうリスクをどのように低減するのかを考える努力をしなければならない。(現在もある程度考慮しているだろうが、何らかのブレイクスルーが必要だろう)
 ジャーナリストは決して利己的な感情で現地に行くわけではなく、理性的かつ高い目的意識をもって取材を行っている。本人はそのつもりでも、納得できない人が少なからず存在することも事実。ジャーナリスト自身が自らの価値を明確に示すべき時がやって来たのかもしれない。