2014年10月15日水曜日

『イスラム国』VS『キリスト国』


イスラム国(ISIL)に世界中から若者が集結している今の現象は、
「破滅的な人」、「主流からあぶれた人」、
「暴力執行による有能感を求める人」が集合し、
彼ら自身が各々の自我の障害と向き合っている状況と言える。
この現象は決して止められない。
人類が社会的動物である限り、自我の発達や
自我を社会に適応させることに失敗する人が絶えることはないからだ。
イスラム国を壊滅させても、名前の異なる別の反社会的組織が生まれ、
そこに人々が集合する。

とはいえ放っておけば、組織が益々大きくなり、
核武装をした時点で暴力国家が成立するだろう。

主流世界へのチャレンジが始まり、現在の世界情勢を変更したい
と考えているロシア、中国といった国々が便乗する事態になれば、
いよいよ民主主義、資本主義をポリシーとする主流世界の秩序は
不安定なものになるだろう。

解決方法があるとすれば、彼らのような
自我に障害を抱える者たちの受け入れ口を予め整備し、
コントロールするシステムを構築することだろう。
その一例として、少し大胆な構想を提示してみる。
現実性やモラルは一旦横に置いておくので、悪しからず。



提案「イスラム国と対立するキリスト国(仮)を創設する」


① 「対テロ連合義勇軍」を設立する。
  反体制であり、主流と逆行するという意味での「悪」の象徴である
 イスラム国と対抗する、 「善なる組織」を作り、
 世界から義勇兵を募る。
  彼らは最前線で戦い、正規軍は後方支援に回る。
   効果:正規軍の人的・経済的消耗を軽減できる。
 (戦争の外注委託の事例は現実に、アメリカ軍による民間軍事会社活用や
  フランスの外国人部隊に見られる。)

② 俗称を「キリスト国」とする
  組織名は分かり易く、また扇情的であった方が、
  明確な対立構造を演出できる。
  効果:人々の耳目を集め、人も金も集まる。
  
③ 広く一般からの投資を受け入れる
   イスラム国とキリスト国を単純に武力衝突させるだけでなく、
   人と金を競合させる。
   効果:暴力によって自我の問題を解決しようとする人々の力や金を、
       特定の組織に一極集中させないようにする。

④ イスラム国とキリスト国との戦闘を生中継する
  放映権収入をスポンサーへの配当や義勇兵への報酬に当てる。
  効果:キリスト国が経済的に自立し、継続的な活動となる。

⑤ イスラム国を完全には壊滅させない
   イスラム国側の戦力が落ち過ぎないよう、攻撃を調整する。
   また、キリスト国の義勇兵を英雄として演出しつつも、
   イスラム国側の人物や兵力も紹介する。
   イスラム国もある程度魅力的なものとして描き、
   人と金の流入を維持する。
  効果:暴力を求める人々の行き場がなくなることを防ぐ。

このようにして、自我に問題を抱えた者たちに新たな選択肢を与え、
相互に対立させ、切り離された別世界の中で暴力を消費させつつ、
現状の主流世界は秩序を保ち資本も循環する
サスティナブル(持続可能な)システムだ。


 戦争は、望まない人にとっては確かに悪であるが、戦場に行きたくて居ても立っても居られない人もいる。そうした人たちが閉じた世界の中で戦うことは、哲学的に思考したときに、悪だと言い切れるだろうか。


2014年10月14日火曜日

『イスラム国』に集結する若者の心理

 イスラム国(ISIL)に世界中から義勇兵が加わりつつある。
 CIAはその戦力を2万から3.15万人と見込んでおり、そのうちの約1割が外国人である。
 イギリスから500名、ドイツから400名が参加しているとみられており、日本においても先日、学生がイスラム国への参加を試みたとして警察から事情聴取されたが、軍事評論家の田母神氏によれば、既に9名の日本人がイスラム国に参加しているという。

 これらの外国人は、必ずしもイスラム教や中東情勢に興味があるわけではないらしい。イスラム過激派に加わる者は、不遇な生活環境や家庭的に恵まれない若者が多かったとされるが、現在は中流・富裕層も多くいるとされる。

何故、彼らは戦場に身を置きたがるのか。ヒントはいくつかある。

・事情聴取を受けた大学生の発言(参考
「日本での社会的な地位などに価値を見い出せなくなってシリアに行きたいと思い、大学などすべての生活を投げ捨ててきた。イスラム教については、宗教を勉強している中で少し学んだ程度で、シリアなど中東情勢についてもあまり知らないが、戦場など特異なものに興味があり、感じてみたいと思った。『イスラム国』が発信する教えに共鳴したわけではなく、そうした宗教の考えのもとの国があったら、おもしろいだろうなと思った。戦場で自分が死ぬことは大した問題ではないと思う。」
「義勇兵になれないなら自殺する」

・シリア反政府組織に参加した元自衛官、鵜澤佳史氏(参考
「小学校の時に、いじめに遭いまして。生と死の極限状況に身を置けば、自分の生きる意味が違った視点から見られるかなと。」

これらから推測されるのは、下記3点のような心理だろう。

(1)自殺行為の代替(=自我の破綻)
 自分とこの世界が相容れないのなら、死ぬしかない。
 しかし、自分で自分を殺すこともできない。
 死の匂いのする処へ行きたい。リスクに身を晒したい。

(2)自己と相容れない外的世界に対する復讐(=自我の適応失敗)
 この世界は自分を認めてくれない。自分を必要としていない。
 自分の存在を脅かす。
 だから、身の回りの主流社会とは異なる立場に身を置き、対決しなければ、
 自分は生きられない。
 (例:勉強が出来ることを善とする学校は、勉強のできない自分の価値を認めない。
    だから「不良」になって、秩序を否定し反抗しなければ、自分の存在が消えてしまう。)

(3)暴力を執行する側に立てるという強烈な自己効力感の追求(=自我肥大)
 武力組織に加わり、自分が武器を手にすることで、
 世界に恐怖を与えることが出来る。
 自分はなんて強いのだろう。自分は無力などではない。
 外界への影響力持つことが出来る。
 そうして、世界と繋がることが出来る。
 (一部の富豪がイスラム国に投資しているとのことだが、
  彼らはこのカテゴリーに属するだろう)

 (1)~(3)のどれか一つであったり、複数が綯い交ぜになった状態だろう。
これは、多くの自我が未発達な時期の若者や主流社会からあぶれた者たちが、
多かれ少なかれ抱く感情である。
軽度なものであれば、普通の人にも日常的に湧きおこる感情だ。
就職面接に失敗したら、(1)か(2)に近い心理的状況に陥るのも自然である。

 こうした者が生まれるのは、人類が社会的な生活を営んでいる以上防ぐことのできない、普遍的な現象と言ってよいだろう。
 人間が画期的な思想を見出し、ユートピア的な世界を創造しない限り、過去も、現在も、未来もずっと同じことが繰り返される。全ての人が平等に幸福な時代がやって来るまでは……。

 以前はこうしたはみ出し者たちの一部は、ヤクザが受け入れていた。
現代はあらゆるものがグローバル化しており、イスラム国もグローバル化したヤクザという見方ができる。
 正規の軍隊や、脱退するのに指を切り落とさなければならないヤクザに比べ、手軽に本格的な武力集団に参加できるのだから、イスラム国は社会から弾かれた者たちにとって垂涎の選択肢なのだ。
 寧ろ、他に選択肢が無い。正に、「イスラム国に入れなければ死ぬしかない」なのだ。

 もっとも、実際戦闘経験の無い外国人がISILに入ったところで、雑用係を任されるか、訳も分からず前線に送り込まれて命を落とすことになる公算が高い。



2014年7月5日土曜日

サッカー日本代表の自我②


日本サッカーがぶつかっている壁を打ち破る為に
必要なのは幼少期からの教育だろう。
日本社会に適応させる作業ではなく、
グローバルスタンダードな心を育てる教育をしなければならない。
グローバルスタンダードというのは、英語は勿論だが、
 ①自分の意見を持ち、他者に伝えること
   (すなわち、自我の確立にもつながる)
 ②自国に対する自尊心を育てること
がポイントとなるだろう。

最近のサッカーは、スペインを代表とするポゼッションサッカーが主流になっていた。
自分たちのリズムでボールを細かくつなぎ、徐々に相手陣内へ入り、
チャンスを探っていくのだ。
しかし、今大会ではカウンターサッカーをするチームが目立っている。
しっかり守り、相手を自陣に引き込んでボールを奪い、相手の守備が整う前に
少ないパス、あるいはロングボールでチャンスを作る。
個人能力に優れる選手がいることが前提だが、
リスクは小さく、チャンスを増やせる戦略だ。

サッカーのトレンドは変わる。
今大会のトレンドの変化も誰かの意図によって生まれたのではなく、
勝利への強いモチベーションに促され、個々の選手が必死に考え、
行動した結果の産物だ。
W杯でトレンドの変化が起きやすいのは、このような現象が起こるからだろう。
W杯本番はさながら「新しいサッカー」の実験場なのだ。

次の大会では、カウンターサッカーかあるいは
それを打ち破る別の戦略が主流になっているかもしれない。
事前に決めた作戦が通用しない時、個々の選手が自分で考え、
自信を持って状況に応じたプレイをすることが日本の選手にも求められる。

こうしたことはサッカーだけでなく、他のスポーツや、
一般社会にも当てはまることだろう。


別の可能性としては、逆に自我を捨て、
11人が1つの個体であるかのように振舞えるようになるまで、
組織力を高め、パスだけでキーパーを含めた相手チーム全員を
抜き切るようなサッカーだ。
こちらの方が日本人には合っているのかもしれないが、
鳥や魚や蜂の群れのような状態にまで到達しなければならないだろう。


サッカーを強くすることだけに特化した、
飛躍した提案をするとするならばどんなことだろうか。

①キリスト教を日本の国教とする
  ⇒ 自我や個人尊重の概念が育つ

②キリスト教国の外国人移民を増やす
  ⇒ いわば、「自我のアウトソース」。また、強国は人種が多様である。

③日本の公用語を英語にする
  ⇒ 英語は合理的な言語。そして、言語は「思考」のベースとなるだけでなく、
    「無意識」のベースともなる。合理的な心を備えれば、
    情緒的な行動が減少し、国際社会での成功確率が高まるだろう。

④日本人の緊張遺伝子を遺伝子操作で変えてしまう。
  ⇒ 今後の医療の発達に期待





2014年6月26日木曜日

サッカー日本代表の自我①

ブラジルワールドカップでの日本代表の敗因を
これから様々なサッカー解説者が分析するだろう。
しかし、スポーツ競技としての戦術という視座で考えるには限界が来ている。


ワールドカップ本番は勝負の世界。
どれだけ良い準備をしても、どちらに転ぶかは分からない。
サッカーは元来、必ずしも実力通りの結果にならないことが多い競技なのだ。

勝ち負けや得点差は問題ではない。


重要なポイントは、サッカーに限らず、日本人の多くに見られる
  本番で力が抜けてしまうこと、
  頭が真っ白になってしまうこと、
  パニックになってしまうこと、
といった特徴だ。

この原因は、様々な方向から考えられる。

遺伝学的には、緊張遺伝子を持つ割合が日本人には多いという説明ができる。

しかし、それよりも、集団主義社会で生活する日本人の自我の確立が
不十分であるという、心理学的な側面から考える必要がある。
自我が弱ければ、チームの戦略の中での自分の為すべき仕事が
判らなくなってしまう。
決め手となる相手の意表を突くシュートやパス、相手を置き去りにするドリブルを、
主体的に狙いをもって仕掛けていく精神力が弱くなる。
試合の行方を決める重要な場面は、必ず人対人の駆け引きだ。
瞬間的な創造性を発揮し、相手を出し抜いて勝たなければならない。
この発想力は誰かに頼っていても得られないのだ。
サッカー解説者がよく使う「したたかさが足りない」や
「最後のアイデアが足りない」という曖昧な表現の裏にある真因は、
これではないかと思う。


少し視点をずらすと、宗教学的にも説明できる。
ワールドカップ優勝国の全てがキリスト教国であり、
ベスト3の国々も殆どキリスト教国である。
実のところ、キリスト教と自我の確立には深い関連がある。
詳細を説明するには長大な字数を要するので、ここでは省略するが、
キリスト教の教典の中には、人の心の発達、
とりわけ自我を確立するイメージが満載なのだ。
そうしたイメージに多く触れている人々は、
それを自らの自我の確立の一助とすることができるのだ。
確固とした自我をもった人々は、論理的に思考し、合理的に行動できる。
歴史的には不合理な過ちも犯してきたキリスト教徒だが、
自然科学の研究や経済の発展を牽引してきたのもキリスト教徒だ。
自我は論理性の牙城なのだ。

一方、イスラム教も、元を辿ればキリスト教と同じルーツをもつが、
熱心に祈る姿は明らかに「無我」の属性をもっている。

この説に関しては、
「キリスト教圏とサッカーが盛んな地域が一致している」
だからだと短絡的に説明することもできるが、もしかすると、
「キリスト教圏だからサッカーが盛んである」
と言うこともできるかもしれない。(さらなる分析は必要だが)



別の視点で、社会的、歴史的背景の関連もある。
今大会開催国ブラジルの初戦、国歌斉唱での出来事だ。

原曲が長すぎるブラジル国歌は、短縮版の伴奏が用意されており、
観客や選手も省略した国歌を歌うのが一般的だ。
しかし、開催国での初戦ということもあり、観客も選手も感情が昂ぶっているため、
伴奏が終わっても、一層大きな声で高らかに歌い続け、全曲を歌い上げたのだ。
(厳密には、2013年コンフェデレーションズカップ辺りから始まった習慣だが)

~ブラジル国歌~
イピランガの静かな岸辺は聞いた。
轟く人々の雄たけびを。
そして自由の太陽は、
この瞬間に明るき光を導いて、
祖国の空を照らし出す。
我らの強い腕で得た平等の証。
汝の胸に、おお、自由。
我等の心は死をも恐れない。
おお最愛の麗しき祖国、栄えあれ、栄えあれ。
ブラジル、それは荘厳な夢。
愛と希望の鮮やかな光が地上に降り注ぐ。
清く微笑む汝の美しき空に、
南十字星はまばゆく輝く。
雄大な大地、それは美しく。
それは強く、恐れを知らぬ巨人だ。
そして汝の偉大さが、汝の子孫の未来を照らす。
おお、我等が崇める大地。
数多き千の国の中で、愛しき祖国、汝はブラジル。
国の子の優しき母。
最愛の祖国ブラジル。

素晴らしく穏やかな世界は永遠に広がる。
さざめく海と大空からは、光が差し込む。
ブラジル、汝はきらめくアメリカの輝き。
新たなる世界は、太陽に照らし出され、
汝の微笑み、いとしき大平原は、
どこよりも多く、美しき花々で満ち溢れ、
我等が森は、数多き生命で満ち溢れ、
汝の胸に抱かれた我等は、慈愛に満ちている。
おお最愛の祖国、栄えあれ、栄えあれ。
ブラジルよ、汝の永遠の証として、
汝の示す、星々が散る旗を持たんことを。
旗が記す月桂樹の緑が、
未来の平和と過去の栄光を語らんことを。
されども汝が正義の名の元で強く憤る時には、
汝の息子は戦いから逃げず、
汝を崇める者が死を恐れないことを見るだろう。
おお、我等が崇める大地。
数多き千の国の中で、愛しき祖国、汝はブラジル。
国の子の優しき母。
最愛の祖国ブラジル。


郷土への愛情と自尊心に満ちた歌だ。

ネイマールを含め、何人かのブラジル選手や観客の目に涙が浮かんでいた。
自らのベースである祖国を愛する心は、自分を信じる力となり、
自我に心的エネルギーを注ぎ込む。
これは単なる情緒的な話ではなく、心理学的事実だ。

こうした「普通の国々」比べて、日本人はどうか。
祖国を愛する心は未発達だ。
国歌や国旗にどこか後ろめたさがあるように見える。
(勿論、全員ではないが、傾向として)


では、どうすれば、日本が変わるのか、だが、長くなってしまったので、次回に続く・・・



2014年4月26日土曜日

Event Horizon by Serph

Serphのミニアルバム『Event Horizon』がリリースされました。
リミックス5曲と新曲2曲です。
価格は自分で決められるシステムです。画期的だ。


https://noble-label.bandcamp.com/album/event-horizon



Serphの別名義Reliq(レリク)も発売されています。
http://www.noble-label.net/release/?ja


2014年1月30日木曜日

防御を固める企業とテレビの限界

Yahooニュースで何度も取り上げられているので、一部の人たちから批判を浴びているという噂のドラマ「明日、ママがいない」を見てみました。
ドラマ自体は、子役たちが一生懸命お芝居をしている、平凡で、無害なものでした。施設長の子供たちに対する乱暴な振る舞いも、後々の展開につながる前振りに過ぎないことは容易に想像でき、現段階でそれを批判するのは、自らの想像力の欠如を露呈するようなものだと思いました。
この「問題」というより、単なる「事象」が起きた根底には、企業経営の潮流の変化があると思われます。
マーケティングやイノベーションなどが経営の攻撃とすれば、「CSR」や「コンプライアンス」は防御です。
ここ10年ほどで、国内外で発生したいくつかの問題を教訓に、日本の大企業は社会における企業の在り方を見つめ直し、それまで意識の弱かった「防御」の方を一斉に強化しているのです。
その結果、忙しい経営陣は、常にリスクの小さい方へと、素早く意思決定する傾向が強まりました。社会の目を気にし、批判されないように、ビクビクしながらなんとか事業を継続していこうという訳です。
更にたちの悪いことに、暇を持て余しているクレーマーの団体や個人は、興奮した狂犬のように振舞いつつも、上述のような状況を理解し、スポンサーをつつけば自らの主張が通りやすいことを知っています。そうして、自己効力感に浸るのです。
その一方で、監修の野島氏は過去から物議を醸しそうなテーマを敢えて扱うことで注目を浴びる戦略を採ってきており、当作品もその種のものです。この戦略は、過去には上手く機能したかもしれませんが、全身が粘膜のように敏感になってしまったやわな大企業とお仕事をするには、如何にもミスマッチな戦略です。
大企業に従属的な民放が新たな価値を提示するような番組を創ることは困難です。民放のビジネスモデルが陳腐化したということではないでしょうか。
この件とほぼ時を同じくして、NHKの新会長として登場した籾井氏の批判を恐れない姿勢には、むしろ微かな期待を抱いてしまう。事実、民放よりもNHKの方がイノベーティブな番組や実験的な番組が多いですし。