前回に続き、ボネ著の『性倒錯─様々な性のかたち』の中身を紹介します。
気になった箇所を端的に箇条書きでいきます。
前後の文脈の中でないと意味が分からない文章もあるかと思いますが、
雰囲気だけでも掴んでいただければ。
性倒錯は孤独な快楽
・倒錯者は、自分の作品要素の中に自らの性的特性を組み入れている。
・倒錯は無意識のコードに対応しており、自体愛的な快楽を目指しているので、
極めて個人的である。それを体験する者にとっても孤独で神秘である。
・倒錯行為は、もともと必然的に排他的になろうとする傾向をもっている。
倒錯行為が他の形の快感を消していくことで、満足を増していくことも稀ではない。
・倒錯行為は、反復やステレオタイプな形に至ることがあり、
しばしば表向きの意味作用が失われ、凝り固まってしまうこともある。
そうすると、主体はますます非合理な方法を強いられてしまう。
性倒錯者は個々に無意識の内奥で、極めて独特な文脈の中に
性的快楽を組み込んでいる。
作り上げたストーリーを演じることが目的化し、
通常の性的快楽すらバイアスとなり、邪魔になることもあるとのこと。
倒錯は遺伝するのか?
・遺伝性は、他の病気より少ない。
・子供に倒錯が見られることは稀である。子供の倒錯では、
原初的な欲動の活動が問題となっており、大人の倒錯に類似しているが、
その意味合いは異なっている。(ボネ)
因みに、私は幼児期(3歳前後)に自らの倒錯的傾向を自覚し始めていました。
対象倒錯と目標倒錯
・対象倒錯:性的魅力が「対象」によって優位に発揮されるような人、
あるいはそのような現実を、性対象倒錯と呼ぶ。
近親相姦、獣姦、死体愛等、性行為そのものは正常だが、
対象に倒錯が見受けられる者。
・目標倒錯:窃視症、サディズム等、性衝動を通常の性行為以外の
行為によって満たすもの。
●対象倒錯の例
・ある種のナルシシズム(1898年;ハヴロック・エリス、ネッケ、ザドガー):
主体は鏡に向かって自慰することでしか快楽を得ることが出来ない。
したがって、この場合の対象は自分自身であり、様々な形で実践可能である
(写真、録音等)。
・死体愛:精神薄弱や精神病が原因の場合もある。もっと控え目な形では、
葬式で興奮したり、危篤状態のパートナーに病的な快感を
覚えたりすることがある。こうした快楽が成立するのは、
あらゆる離別の彼方に、無意識的な母への固着が
存在するからである(ポー、ボードレール、モラヴィアなどの文学を参照)。
ヴァンピリズム(吸血症)についても同様。
・獣姦:父親と理想化された動物の間には古典的な代理関係が存在することが
知られている。
フロイトの転機
フロイトは倒錯者と正常者の間の高い壁をあえて乗り越えようとした。
それは、倒錯者が世界的に共有された産物であり、
必ずしも病的なものではないことを示す為である。
倒錯は性的無意識に依拠している。
つまり、倒錯はもはやアウトサイダーのための表現ではなく、
最も基本的な様相の一つと考えられるようになった。
フロイトから読み取れる3つのセクシュアリティ
①自発的、暗黙的なもので、言語の中に埋め込まれている。
したがって、これが依拠するところは文化的なものである。
これは基本的に、理想的セクシュアリティとの関連で練り上げられる。
②倒錯を性器的セクシュアリティと関連付ける考え方。
③倒錯を前性器的な欲動的セクシュアリティに関連付ける考え方。
つまり、人間のメンタリティを奥底で組織化している
幼児性欲と倒錯とを関連付けようという考え方。
倒錯のネーミングの由来
●有名な地名に由来する表現
・ソドム:ソドミーは禁じられた不浄の身体の場という意味から、
肛門性交を意味するようになった。
・レスボス:アテネのギリシア人作家が、同性愛者一般の故障として
レズビアンという言葉を用いたのが始まり。
詩人サッポー(紀元前7~6世紀)は宗教的女性結社の指導者で、
少女の教育を担っていた。彼女の作品の多くは女性の魅力を
褒めたたえるもので、嘲笑の的であった。
サッポーがレスボス島の出身であったことから、
アテネでは「レズビアン」と呼ばれ、やがて同様の自由を要求する
女性すべてにこのことばが用いられるようになった。
「サフィズム的な快楽」と呼ばれることもある。
因みに、レスボスは男の神の名前。
●アンチ・ヒーローの名前に由来する表現
オナン:ユダヤ・キリスト教において、ソドムと同じくらい不名誉な名前。
聖書の創世記に登場する人物。死んだ兄の代わりに
子孫を残すべく兄嫁と結婚させられたが、当時の法に則り
子供が出来れば、父の遺産が自分のものとならないのを知っていたので、
「子種を地面に流した」とされる。社会集団がセクシュアリティに
割り当てた目的に逆らったという理由で、彼は倒錯とみなされた。
オナニズムはマスターベーションの類似語となり、
多くの倒錯において重要な位置を占める。
勿論、この行為自体は倒錯に当たらない。
●半神の名前に由来する表現
時間や空間の隔たりを飛び越えて、快楽至上主義の古代ギリシア・ローマの
異教文明の半神を持ち出すことによって、倒錯を多少なりとも
不気味な中間存在として位置付けることが出来る。
・ニンフ:ニンフォマニアも同様である。この古い言葉(1732年)は
ギリシア語を起源としている。
マニア(躁病)が想起されるが、魅了という意味に重点が置かれている。
女性の性欲が亢進している状態を表す。(クラフト=エビング)
・サテュロス:ギリシア神話に出てくる半人半獣の神。常時勃起した陰茎を持つ。
サテュリアシス(男子色情症)は古代医学の用語に属する。
しばしば、色情症に留まらず男性の倒錯一般を表すのに使われる。
倒錯に神的な由来を与えることは、われわれが無意識の側にあるものに、
より接近しやすいという利点がある。
2012年4月14日土曜日
2012年2月25日土曜日
『性倒錯─様々な性のかたち』ジェラール・ボネ
ジェラール・ボネの『性倒錯』を読みました。
フロイト、クラフト=エビング、ラカン、マニャンなど
過去の偉大な心理学者の研究を引用しながら、
サディズム、マゾヒズム、露出症、窃視症、服装倒錯など
性倒錯の中では比較的メジャーな倒錯について書いているもの。
コンパクトによくまとまっていて、
「性倒錯とは」ということを改めて知るにはよい本。
性倒錯について知ることは、
単に奇妙な性欲を持っている人について知ることではない。
それは特殊な性質ではあるが、
人類のある割合で共通する人間心理であり、
心の深奥を知る手掛かりとなるものなのです。
今後何回かに分けてこの本の内容の紹介をするとともに、
私の解釈や考えを書いていきます。
![性倒錯─様々な性のかたち (文庫クセジュ) [新書] / ジェラール ボネ (著); 西尾 彰泰, 守谷 てるみ (翻訳); 白水社 (刊) 性倒錯─様々な性のかたち (文庫クセジュ) [新書] / ジェラール ボネ (著); 西尾 彰泰, 守谷 てるみ (翻訳); 白水社 (刊)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41N3jO9KtxL._SL160_.jpg)
フロイト、クラフト=エビング、ラカン、マニャンなど
過去の偉大な心理学者の研究を引用しながら、
サディズム、マゾヒズム、露出症、窃視症、服装倒錯など
性倒錯の中では比較的メジャーな倒錯について書いているもの。
コンパクトによくまとまっていて、
「性倒錯とは」ということを改めて知るにはよい本。
性倒錯について知ることは、
単に奇妙な性欲を持っている人について知ることではない。
それは特殊な性質ではあるが、
人類のある割合で共通する人間心理であり、
心の深奥を知る手掛かりとなるものなのです。
今後何回かに分けてこの本の内容の紹介をするとともに、
私の解釈や考えを書いていきます。
![性倒錯─様々な性のかたち (文庫クセジュ) [新書] / ジェラール ボネ (著); 西尾 彰泰, 守谷 てるみ (翻訳); 白水社 (刊) 性倒錯─様々な性のかたち (文庫クセジュ) [新書] / ジェラール ボネ (著); 西尾 彰泰, 守谷 てるみ (翻訳); 白水社 (刊)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41N3jO9KtxL._SL160_.jpg)
2011年7月18日月曜日
諸橋近代美術館~ダリ美術館~
世界3大ダリ美術館の1つとされる、福島の諸橋近代美術館に行きました。
車を走らせ、自然が豊かな山奥に位置する美術館に到着。
本当に芸術に興味があるのか疑わしいような人でごった返す都内の美術館とは異なり、
恐らくダリの作品を観ようという目的をもっている人しか来ないので、
休日でしたが、観覧者は疎らでのんびり観ることができました。

池に反映する美術館がどこか形而上絵画的。
ダリの絵画作品のみならず、オブジェ作品が多数あります。
とりわけオブジェ作品に関しては、時折都内や地方で開催されるダリ展でも
なかなか観られないものでしょう。
宇宙象(足の長い象)が余震の懸念から、展示を見合わせていたのが残念。
ダリ以外にも西洋絵画が多数あります。
・常設作品のガイドブック(315円)


格安のガイドブックはおすすめ。
車を走らせ、自然が豊かな山奥に位置する美術館に到着。
本当に芸術に興味があるのか疑わしいような人でごった返す都内の美術館とは異なり、
恐らくダリの作品を観ようという目的をもっている人しか来ないので、
休日でしたが、観覧者は疎らでのんびり観ることができました。

池に反映する美術館がどこか形而上絵画的。
ダリの絵画作品のみならず、オブジェ作品が多数あります。
とりわけオブジェ作品に関しては、時折都内や地方で開催されるダリ展でも
なかなか観られないものでしょう。
宇宙象(足の長い象)が余震の懸念から、展示を見合わせていたのが残念。
ダリ以外にも西洋絵画が多数あります。
・常設作品のガイドブック(315円)


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2011年3月12日土曜日
世界の終りの夢 ~地震と心のシンクロニシティ~
3月11日明け方、夢を見た。
私は街が見渡せる6~7階のアパートに、若い6人ほどの同居人とともに暮らしていた。地平線の果てまで低い建物の街並みが続いていた。
リビングで寛いでいると、たて笛のようなヒューという高い音色が聞こえた。その直後に、遥か遠くで微かに破裂音が聞こえた。私だけに聞こえているのかと、同居人を見渡したが、誰も気づいていないようである。すると、また先よりも少し大きな破裂音が聞こえた。窓の外を見遣ると、遠くの空に光を放つ飛行物体が煙を吐きながらゆっくりと飛んでいる。私は指をさして皆に知らしめた。
7人が注目する中、光は弧を描きながら街に落下し、爆発した。ミサイルだった。
まだその時は、現実感がなく他人事のように一同はその様子を見詰めていた。
しかし、また一つ、また一つと光が街並みに飲みこまれ爆炎が上がり、それが徐々にこちらに近づきつつあった。そして、飛来するミサイルは途絶える所か、次第にその数を増やし、空を埋め尽くすほどの量になった。
私の感情は恐怖を省略して、世界の終りを迎え入れようという諦観の域に入っていた。
世界は意外なほど静かに終わってゆくようだった。
街の半数が瓦礫に変わった頃、私のアパートの近くで爆発が起こった。その直後、大きな爆音とともにアパートが大きく揺れ、窓硝子が割れた。
不思議と7人は落ち着いていた。皆が何かを覚悟して顔を見合わせた。
無数のミサイルの雨が降ってくる天の方向に、人ならぬ巨大な悪意と神性をもった存在が感じられた。私たちは、何もせず死ぬよりは、その者に抵抗しようと考えたのだ。
私は言った「着替えようか。」
皆は静かに深く頷き出かける身支度を始めた。
ここで目が覚める。
その日の昼下がり、東日本大震災が起こった。
私自身も、大きな揺れに見舞われた。恐怖を通り越して、世界の終りを覚悟する感覚が、明け方に見た夢と酷似していた。
この「偶然の一致」は、シンクロニシティ(共時性)と呼ばれるものと捉えています。
人は通常、ある現象は物理的な因果性を以って引き起こされると考えます。例えば、「風が吹いて、木から一枚の枯れ葉が落ちた」という現象について、「風が吹いたから」という因果の連関を想定します。
しかし、共時的概念に則って解釈すると、「大事な人が死に、一枚の枯れ葉が落ちた」と考えることが出来るのです。つまり、意味やイメージ、人間心理といったものを共通項にし、それに関連する複数の事象が、物理的因果に関係なく、共鳴するようにほぼ同時に引き起こされるというのが、シンクロニシティなのです。
シンクロニシティの提唱者ユングも、第1次世界大戦の前に、ヨーロッパが大洪水に襲われる夢を見るなど、多くの予知夢や予知的な幻像(白昼夢のようなもの)を見ています。
ユング心理学辞典によれば共時性とは、
1. 非因果的連関の原理
2. 別々のできごとに、互いに因果的な関連はないが、そのつながりに意味が感じられる事態を示すもの
3. 別々のできごとが、時空間的に互いに一致し、しかも意味深い心理的連関がそこに感じられる事態をしめすもの
4. こころの世界と物質の世界をつなぐもの
です。
シンクロニシティについて、単なる偶然の一致だ、論理的ではない、という批判は当然ある。
ただ、ウィキペディアにもあるように、「遠く離れた出来事が、直接に物理的な因果関係で結ばれることなく相関性を持ち得るのは、量子力学の相関関係において明確に表されている」のです。
ユング派心理学者フランツは共時性に関連して次のように述べいます。
「心と物は実際は1つの現象であって、一方は『内側』から観察されたものであり、もう一方は『外側』から観察されたものである」
量子力学における、2つの電子のスピンの話に似ていなくもない。
ユングは、自身の体験や東洋の宗教の研究からシンクロニシティを提唱したが、それほど多くの事例には接していないでしょう。しかし、個人的体験が無数にネット上に暴露されている現代、ブログやTwitterで今回の地震に関するシンクロニシティ様体験がどれほど起こっているのか探ってみると、意外に多く発見できるかもしれません。
私は街が見渡せる6~7階のアパートに、若い6人ほどの同居人とともに暮らしていた。地平線の果てまで低い建物の街並みが続いていた。
リビングで寛いでいると、たて笛のようなヒューという高い音色が聞こえた。その直後に、遥か遠くで微かに破裂音が聞こえた。私だけに聞こえているのかと、同居人を見渡したが、誰も気づいていないようである。すると、また先よりも少し大きな破裂音が聞こえた。窓の外を見遣ると、遠くの空に光を放つ飛行物体が煙を吐きながらゆっくりと飛んでいる。私は指をさして皆に知らしめた。
7人が注目する中、光は弧を描きながら街に落下し、爆発した。ミサイルだった。
まだその時は、現実感がなく他人事のように一同はその様子を見詰めていた。
しかし、また一つ、また一つと光が街並みに飲みこまれ爆炎が上がり、それが徐々にこちらに近づきつつあった。そして、飛来するミサイルは途絶える所か、次第にその数を増やし、空を埋め尽くすほどの量になった。
私の感情は恐怖を省略して、世界の終りを迎え入れようという諦観の域に入っていた。
世界は意外なほど静かに終わってゆくようだった。
街の半数が瓦礫に変わった頃、私のアパートの近くで爆発が起こった。その直後、大きな爆音とともにアパートが大きく揺れ、窓硝子が割れた。
不思議と7人は落ち着いていた。皆が何かを覚悟して顔を見合わせた。
無数のミサイルの雨が降ってくる天の方向に、人ならぬ巨大な悪意と神性をもった存在が感じられた。私たちは、何もせず死ぬよりは、その者に抵抗しようと考えたのだ。
私は言った「着替えようか。」
皆は静かに深く頷き出かける身支度を始めた。
ここで目が覚める。
その日の昼下がり、東日本大震災が起こった。
私自身も、大きな揺れに見舞われた。恐怖を通り越して、世界の終りを覚悟する感覚が、明け方に見た夢と酷似していた。
この「偶然の一致」は、シンクロニシティ(共時性)と呼ばれるものと捉えています。
人は通常、ある現象は物理的な因果性を以って引き起こされると考えます。例えば、「風が吹いて、木から一枚の枯れ葉が落ちた」という現象について、「風が吹いたから」という因果の連関を想定します。
しかし、共時的概念に則って解釈すると、「大事な人が死に、一枚の枯れ葉が落ちた」と考えることが出来るのです。つまり、意味やイメージ、人間心理といったものを共通項にし、それに関連する複数の事象が、物理的因果に関係なく、共鳴するようにほぼ同時に引き起こされるというのが、シンクロニシティなのです。
シンクロニシティの提唱者ユングも、第1次世界大戦の前に、ヨーロッパが大洪水に襲われる夢を見るなど、多くの予知夢や予知的な幻像(白昼夢のようなもの)を見ています。
ユング心理学辞典によれば共時性とは、
1. 非因果的連関の原理
2. 別々のできごとに、互いに因果的な関連はないが、そのつながりに意味が感じられる事態を示すもの
3. 別々のできごとが、時空間的に互いに一致し、しかも意味深い心理的連関がそこに感じられる事態をしめすもの
4. こころの世界と物質の世界をつなぐもの
です。
シンクロニシティについて、単なる偶然の一致だ、論理的ではない、という批判は当然ある。
ただ、ウィキペディアにもあるように、「遠く離れた出来事が、直接に物理的な因果関係で結ばれることなく相関性を持ち得るのは、量子力学の相関関係において明確に表されている」のです。
ユング派心理学者フランツは共時性に関連して次のように述べいます。
「心と物は実際は1つの現象であって、一方は『内側』から観察されたものであり、もう一方は『外側』から観察されたものである」
量子力学における、2つの電子のスピンの話に似ていなくもない。
ユングは、自身の体験や東洋の宗教の研究からシンクロニシティを提唱したが、それほど多くの事例には接していないでしょう。しかし、個人的体験が無数にネット上に暴露されている現代、ブログやTwitterで今回の地震に関するシンクロニシティ様体験がどれほど起こっているのか探ってみると、意外に多く発見できるかもしれません。
2011年3月6日日曜日
飛騨の妖怪『両面宿儺』に関する個人的推論に基づく奇説 ~悪魔主義③~
悪魔主義シリーズ第3回は、日本書紀に登場する『両面宿儺』に関してです。
両面宿儺とは、不思議な存在である。
日本書紀に依れば、彼は二人の人間を背中合わせに融合させたような異形の姿だったという。顔二つ、腕が前後一対の四本、足はそれぞれに合わさっていたため二本だったが前後両方に曲がった。手には弓矢、剣を持っている。動きは俊敏で怪力とされる。こう聞くと明らかに妖怪である。
ところで、両面宿儺は優れた指揮官であり、自身も武術に長けていたいたそうだ。
更に、飛騨国は古代から建築・大工技術が発達しており、彼も優秀な技術者であったという説もある。
更に更に、彼が統治する飛騨国は常に豊作に恵まれていたらしく、日照りのときは雨を呼び、冷害が起こると口から炎を吐いたと言い伝えられているが、現実的には彼が優れた農耕技術をもっており田畑を守っていたと考えられる。
こうした情報を併せて見えてきた両面宿儺の正体は、妖怪などではなく、多彩な能力を発揮し、縦横無尽に働いて飛騨国を守った善き王だ。
事実として、地元では現代でも「宿儺さん」との愛称で慕われ、飛騨国、美濃国の多くの寺で信仰の対象となっている。
何よりも気になるのは、日本書紀における彼の姿に関する奇怪な記述である。
双子の王であったという説、彼の八面六臂の活躍が象徴的に表現された姿であるという説があり、日本書紀の編纂者の恣意性により不気味な妖怪として民衆に伝えられたというのが現実的と言えるかもしれない。
ただ、悪魔性を帯びさせるにしても中途半端な姿で表現され、妙に詳細な特徴まで記述されている点からして、彼は本当に記述通りの姿だったのではないだろうか。即ち、彼はシャム双生児だったのである。しかし、常識的に考えて、古代社会において奇形は許容されるべくもなく、産まれた瞬間に殺されていただろう。
個人的推論ではあるが、彼が奇形でありながらカリスマ的存在となったのは、元々ある程度権力をもっていた親族が、彼を世に送り出す前に、奇形の姿をもつ神の登場するフィクションを創り、飛騨国に普及させた為ではないだろうか。そして、周到に地盤を固めた上で、神話の世界から地上へと神性を帯びながら降臨するような演出の下で、満を持して両面宿儺が現れたのである。
これが事実であれば、奇形の子が産まれた瞬間に、直ぐには殺さずに、彼の非現実性を巧妙に利用した一族の権力を維持する為の筋書き(神話)を発案し、実際にプロデュースした者も大したものである。
両面宿儺が優れた戦士であったことに関しては、彼が奇形の体を巧みに操っていた為だと推測する。脳は身体を道具として認識する。別段、規格通りの身体でなくとも、神経が通っていて、物理的に動けないような構造になっていなければ、脳は奇形の体に適応する。(サイボーグ技術が黎明を迎え、徐々に研究が進んでいるが、訓練次第で人間が機械の体を自分の体の様に扱えるようになることは確認されている)
子供の頃から武道の訓練を受け、次第に隙の無い360°の視野、四本の腕、予測不可能な足捌きを活かした自己流の武術を体得していったことが想像される。
(奇形の人がその特徴的な身体を活かして、常人を超えた能力を発揮したという事例は未だ聞いた事はないが……)
余談だが、両面宿儺が飛騨国に仏教を伝えたという伝承もあるが、彼の生きた仁徳天皇(在位:西暦394~427年)の時代は、仏教が日本に伝わった年(西暦552年)の100年以上前の話である。
更に余談だが、奇形の子が殺されなかった要因が他にもあると考えている。これも個人的推論に基づく奇説だが、両面宿儺の発祥の地と思われる丹生川町は、その名の通り「丹=硫化水銀」が産出する土地であったのではないか。
硫化水銀自体は安定した物質で、毒性は極めて低く、寧ろ薬用として珍重されるものだ。一方、古代中国では水銀が不老不死の効用があると信じられており、錬丹術により硫化水銀から丹薬を生成し、それを摂取した秦の始皇帝や多数の権力者が水銀中毒で怪死したということもあった。
水銀の不老不死の効用についての迷信は日本にも伝来されており、飛騨国の権力者も丹薬を摂取していたのではないかと推測する。そのように仮定すると、当時の飛騨国で奇形児はそれほど珍しくなかったのかもしれない。
そうした背景が有りつつ、如何せん山奥の小国なので、奇形を許容するような特殊な文化が発達し、奇形が社会の中に溶け込んでいたのではないか……というのは考え過ぎかな。
両面宿儺とは、不思議な存在である。
日本書紀に依れば、彼は二人の人間を背中合わせに融合させたような異形の姿だったという。顔二つ、腕が前後一対の四本、足はそれぞれに合わさっていたため二本だったが前後両方に曲がった。手には弓矢、剣を持っている。動きは俊敏で怪力とされる。こう聞くと明らかに妖怪である。
ところで、両面宿儺は優れた指揮官であり、自身も武術に長けていたいたそうだ。
更に、飛騨国は古代から建築・大工技術が発達しており、彼も優秀な技術者であったという説もある。
更に更に、彼が統治する飛騨国は常に豊作に恵まれていたらしく、日照りのときは雨を呼び、冷害が起こると口から炎を吐いたと言い伝えられているが、現実的には彼が優れた農耕技術をもっており田畑を守っていたと考えられる。
こうした情報を併せて見えてきた両面宿儺の正体は、妖怪などではなく、多彩な能力を発揮し、縦横無尽に働いて飛騨国を守った善き王だ。
事実として、地元では現代でも「宿儺さん」との愛称で慕われ、飛騨国、美濃国の多くの寺で信仰の対象となっている。
何よりも気になるのは、日本書紀における彼の姿に関する奇怪な記述である。
双子の王であったという説、彼の八面六臂の活躍が象徴的に表現された姿であるという説があり、日本書紀の編纂者の恣意性により不気味な妖怪として民衆に伝えられたというのが現実的と言えるかもしれない。
ただ、悪魔性を帯びさせるにしても中途半端な姿で表現され、妙に詳細な特徴まで記述されている点からして、彼は本当に記述通りの姿だったのではないだろうか。即ち、彼はシャム双生児だったのである。しかし、常識的に考えて、古代社会において奇形は許容されるべくもなく、産まれた瞬間に殺されていただろう。
個人的推論ではあるが、彼が奇形でありながらカリスマ的存在となったのは、元々ある程度権力をもっていた親族が、彼を世に送り出す前に、奇形の姿をもつ神の登場するフィクションを創り、飛騨国に普及させた為ではないだろうか。そして、周到に地盤を固めた上で、神話の世界から地上へと神性を帯びながら降臨するような演出の下で、満を持して両面宿儺が現れたのである。
これが事実であれば、奇形の子が産まれた瞬間に、直ぐには殺さずに、彼の非現実性を巧妙に利用した一族の権力を維持する為の筋書き(神話)を発案し、実際にプロデュースした者も大したものである。
両面宿儺が優れた戦士であったことに関しては、彼が奇形の体を巧みに操っていた為だと推測する。脳は身体を道具として認識する。別段、規格通りの身体でなくとも、神経が通っていて、物理的に動けないような構造になっていなければ、脳は奇形の体に適応する。(サイボーグ技術が黎明を迎え、徐々に研究が進んでいるが、訓練次第で人間が機械の体を自分の体の様に扱えるようになることは確認されている)
子供の頃から武道の訓練を受け、次第に隙の無い360°の視野、四本の腕、予測不可能な足捌きを活かした自己流の武術を体得していったことが想像される。
(奇形の人がその特徴的な身体を活かして、常人を超えた能力を発揮したという事例は未だ聞いた事はないが……)
余談だが、両面宿儺が飛騨国に仏教を伝えたという伝承もあるが、彼の生きた仁徳天皇(在位:西暦394~427年)の時代は、仏教が日本に伝わった年(西暦552年)の100年以上前の話である。
更に余談だが、奇形の子が殺されなかった要因が他にもあると考えている。これも個人的推論に基づく奇説だが、両面宿儺の発祥の地と思われる丹生川町は、その名の通り「丹=硫化水銀」が産出する土地であったのではないか。
硫化水銀自体は安定した物質で、毒性は極めて低く、寧ろ薬用として珍重されるものだ。一方、古代中国では水銀が不老不死の効用があると信じられており、錬丹術により硫化水銀から丹薬を生成し、それを摂取した秦の始皇帝や多数の権力者が水銀中毒で怪死したということもあった。
水銀の不老不死の効用についての迷信は日本にも伝来されており、飛騨国の権力者も丹薬を摂取していたのではないかと推測する。そのように仮定すると、当時の飛騨国で奇形児はそれほど珍しくなかったのかもしれない。
そうした背景が有りつつ、如何せん山奥の小国なので、奇形を許容するような特殊な文化が発達し、奇形が社会の中に溶け込んでいたのではないか……というのは考え過ぎかな。
2011年2月28日月曜日
日本と悪魔 ~悪魔主義②~
今回は日本における悪の存在についてです。
1.日本と悪魔
キリスト教伝来以前の日本には「悪魔」の概念は存在しない。
日本神話において、それに近い概念があるとすれば、「暴虐(ちはや)ふる悪しき物神」として「国津神(くにつかみ)」が、初期の地上を跋扈していたという。そこへ、「天津神(あまつかみ)」がやって来て、悪しき者を追い払ったという。
これは、現在の日本人の祖先である渡来人が、日本の先住民である縄文人を制圧し、侵略した事実を、朝廷や古事記と日本書紀の編纂者が正当化しようとして描いたものだったのである。
初期の帝たちは、東国への侵攻を続けた。代表的な例として、天皇への恭順を拒み反乱を起こした『悪路王』は桓武天皇の勅命を受けた坂上田村麻呂に鎮圧され、飛騨地方を独自に統治していた『両面宿儺(りょうめんすくな)※』は仁徳天皇の差し向けた武振熊命に打ち破られている。
(※両面宿儺はなかなか面白い人物なので、後日取り上げる)
2.妖怪と鬼
こうして朝廷勢力(天津神)に悪しき者として追われたものたちは、山中深くや海の向こうへ逃げ込み、平地に暮らす人々が日常的には立ち入らない場所で暮らすこととなった。ところが、当然のことながら、非平地民と平地民が接触するという事態が時折発生し、彼らは平地民にとっての「非日常の存在」すなわち「物の怪」として認識されるようになる。
当初、「物の怪」は気配のようなもの、あるいは普通の人間と変わらぬ姿として描写されたが、時を経るごとに怪物化した。抽象概念として存在していた物の怪を「鬼」や「妖怪」として具象的に描き、世に広めるのに貢献したのは、江戸時代の絵師、鳥山石燕(1712~88年)である。
鳥山石燕 ウィキペディア
2011年2月27日日曜日
『悪魔辞典』~悪魔主義~
「悪魔辞典」という本を読んだ。
悪魔事典 (Truth In Fantasy事典シリーズ)
世界のあらゆる時代の神話、小説に登場する悪魔について網羅している本だ。

「Le calvaire, 1882」(Félicien Rops)
ロップスの悪魔的な絵は禍々しい肉体性と相俟って迫力がある。
また、悪魔主義の社会的意味と歴史についても少々記述されていた。
自ら調べたことと併せて下記に書いてみる。
1.悪魔主義の社会的意味
現代的な思考で「神」読み解いていくと、「神=体制」である。体制はその権力を維持するために、神を味方につけた。時の権力者が、野山を開拓し、国を創造し、あらゆる諸問題を解決し、「反体制の者共」を討伐した様子が善行として描かれたものが、神話なのである。
この論理の中で、「神=体制」の敵である「反体制」が正に「悪魔」として描かれる。
神話に描かれてきた「悪魔」は、悪政を働く体制と戦った英雄だったかもしれないのである。
(この本では「悪魔」について「相対的な悪」という説明の仕方に偏っており、「絶対的な悪」の概念への言及が欠けているように思われる)
2.悪魔主義の歴史
悪魔主義が誕生したのは、19世紀末のフランスとされている。その頃のフランスは、フランス革命から1世紀が経過し、世の中はデカダンスの様相を呈していた。
革命当時、旧来の宗教への懐疑と体制への懐疑が混在しながら高揚していた。権力を体制から民衆へと引き戻そうとする流れの中で、特権階級であったカトリック教会の聖職者たちも革命派の標的となった。
こうしたキリスト教弾圧の背景をもつ悪魔主義の基礎には、民衆を統治する装置としての既成道徳の呪縛を祓い、抑圧された個人主義的、快楽主義的思想を解放するという概念がある。社会的革命と呼応するように起こった精神的革命であると言えよう。
悪魔事典 (Truth In Fantasy事典シリーズ)
世界のあらゆる時代の神話、小説に登場する悪魔について網羅している本だ。

「Le calvaire, 1882」(Félicien Rops)
ロップスの悪魔的な絵は禍々しい肉体性と相俟って迫力がある。
また、悪魔主義の社会的意味と歴史についても少々記述されていた。
自ら調べたことと併せて下記に書いてみる。
1.悪魔主義の社会的意味
現代的な思考で「神」読み解いていくと、「神=体制」である。体制はその権力を維持するために、神を味方につけた。時の権力者が、野山を開拓し、国を創造し、あらゆる諸問題を解決し、「反体制の者共」を討伐した様子が善行として描かれたものが、神話なのである。
この論理の中で、「神=体制」の敵である「反体制」が正に「悪魔」として描かれる。
神話に描かれてきた「悪魔」は、悪政を働く体制と戦った英雄だったかもしれないのである。
(この本では「悪魔」について「相対的な悪」という説明の仕方に偏っており、「絶対的な悪」の概念への言及が欠けているように思われる)
2.悪魔主義の歴史
悪魔主義が誕生したのは、19世紀末のフランスとされている。その頃のフランスは、フランス革命から1世紀が経過し、世の中はデカダンスの様相を呈していた。
革命当時、旧来の宗教への懐疑と体制への懐疑が混在しながら高揚していた。権力を体制から民衆へと引き戻そうとする流れの中で、特権階級であったカトリック教会の聖職者たちも革命派の標的となった。
こうしたキリスト教弾圧の背景をもつ悪魔主義の基礎には、民衆を統治する装置としての既成道徳の呪縛を祓い、抑圧された個人主義的、快楽主義的思想を解放するという概念がある。社会的革命と呼応するように起こった精神的革命であると言えよう。
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