2008年11月12日水曜日

デザイン・フェスタVol.28

デザイン・フェスタに行ってきました。

初めて行ったのですが、
あの空間はホントにお祭りといった感じで気分がいいですね。
私は人間の創造物が好きだし、創造する人も好きなので、
その両方が見られるのもこのイベントの醍醐味です。

個人的にはもっとエロくてグロい作品が増えてほしいな。
そして、作品を見つつ作家さんをチラ見したい。(笑)

来場客にはマナーの悪い人がいない気がしました。
アート好きは相対的に無粋な人が少ないのかもしれませんね。

デジカメを持って行くのを忘れてしまったのが、心残りです。
それとインドアライブの音量がちょっと大きすぎる気がしたのですが、
毎回あんな感じなのかな。


doll-unknown

↓に気になった、あるいは目に付いた作家さんの
リンクを備忘録的にいくつか載せます。(随時追記予定)
気になったブースの名刺をちゃんともらっておけば良かったなぁ……。
気に入っても名前が分からないアーティストさんは検索できないので。


公式ブログ(当日の様子)

羽化幻灯
『桜花』
doll-ouka
ここには他にも美しい人形が展示されていました。

レプリカ 
匿名の仮面 
仮面を見るのにも、着けるのにも胸が躍る感じがします。仮面フェチです。
仮面作家になりたいな。作家もどきという意味ではなくて。
仮面のみならず、ガスマスクや普通のマスクといった類にも興味があります。

Illustrator UGYAU
 
ここの褌作品にもドキドキします(笑)
褌の装着者の性別は関係なしに何か感じ入るものがあります。
褌フェチです。

ベラドンナの 人形商人
 
横濱人形倶楽部 
世界はニャーでできている。 
くにこ:ピアノ人形 
駕籠真太郎 
チルチル座 

小沢団子

照沼ファリーザ
この人のご自身のエロティックな姿を撮影した写真の展示が、
今回の最もエロい作品だったと思います。
ブースにはご本人がいらっしゃいました。
��Vに出演されているそうです。
参考



2008年7月20日日曜日

『松井冬子』

NHKで松井冬子の特集を見ました。

痛みが美に変わる時 ~画家・松井冬子の世界~




社会学者、上野千鶴子は彼女のアートを自傷系アートと呼ぶ。
自傷系アートを楽しむというのは、自傷の代替行為であり、それだけでリストカットと同じくらいのカタルシスを得られるのでしょう。
だが、そうした愉悦を貪る少女の直情的な行動とは裏腹に、松井さんの作品は短絡的な「動機のない苦痛」の表現ではないように思われる。(本人にとっても創作が自殺の代替行為であったことは、番組中に明らかになるが)
先日のトップランナーで椎名林檎さんは、「過激なことをすればいいんだろ?」といった業界の風潮に辟易していたと語っていました。
近頃の文学に関しても、「過去のモラルの壁を突き破る過激な性表現をするのが現代文学なのだろう?」と言わんばかりの作品が目につく気がします。
過激な表現自体は構わないと思うが、因果や目的がなければ価値も創造性もないと思います。
「○○すればいいのだろう」と思った時点で、他動的になる。


血や皮膚の剥がれた肉や内臓を見ることで、人間は否応なしに嫌悪や恐怖を覚えます。その情動の根源を訪ねてみても、それがどこから来るのかは分からない。これは先験的なものであり、全人類が共有できるものなのです。
現実世界では血や肉や内臓を目に触れることは少ないし、それを表現する者も少ない。負の情動を起こすものはできることなら隠したいからだ。
でも、私はそうしたものを見てみたい。隠蔽された真の現実性の大海と自らの内にある普遍的な感覚に触れてみたいからです。

松井冬子の魅力についてインタヴューを受けている人たちが、どこか気恥ずかしそうにしているのは、彼女の作品によって自分の内面で萌す普遍的な感覚が、性欲や食欲のような原始的欲求と同質のものであることを、無意識的に理解しており、それを暴露するのが憚られるからでしょう。
想像してみると確かにそうだ。親に隠していた淫猥な本を発見されるよりも、松井冬子の画集を持っていることを知られることの方がどこか気恥ずかしく思われる。


終極にある異体の存在(2007).jpg
『終極にある異体の存在(2007)』
動物に体を啄ばまれるという象徴は、神話においても登場します。
『人類に「火」を伝えたプロメテウスはゼウスの怒りを買い、カウカソス山の山頂に張り付けにされ、生きながらにして肝臓を禿鷹に啄ばまれ続ける責め苦を受けることになる。プロメテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘラクレスにより解放されるまで半永久的な拷問が行われていた。』
動物が意味するものは、自らの無意識、すなわち自らの意思では抑えられない衝動や自分の中の原始的な欲求などであることが多い。
動物に自分の身体が少しずつ喰い千切られていくということは、すなわち自我の収縮であり、離人症的な感覚を表現しているように思われます。VTRの中でもあるが、松井さんは制作中の絵の中の女性に「冬子さん」と呼ばれたことがあるそうです。この幻聴と学生時代に友人を作らなかったことといった傾向を併せて考えると、彼女は統合失調症の可能性があります。離人症的な感覚は、統合失調症や極度の疲労状態などで起こるとされています。

夢や神話や表現の場において、「死のイメージ」と「再生のイメージ」は不可分です。
彼女は描くことで過去を閉じ込め、現在の自分に蘇るのです。なるほど、学生時代の彼女の顔は狂気を帯びていて、正に彼女の芸術の登場人物として相応しい。


番組の最後で上野千鶴子は彼女をバロックパールに喩えます。上野は真球ではなく歪んだバロックパールが好きだと言っています。
ここで私が感銘を受けたフランシス・ベーコンの言葉が浮かびました。

「どこかに均整をやぶる奇異なところがない至高の美はない」

一般には左右対称の顔が美しいとか、均衡のとれた造形が見ていて心地良いとされている。実際多くの人はそうなのでしょう。
しかし、その単純な心地よい美ではない、美があるのです。
樹木が成長するプロセスをプログラミングしてシミュレーションすると、見事な均衡のとれた幾何学模様ができる。しかし、現実の樹木はその特定の時空間に於ける無数の小さな条件がカオス的に働いて、独特の不均衡を表現する。それらを見比べたときに、真っ直ぐに伸びた幹に美を覚えるか、歪曲した幹に美を覚えるか、です。

上野千鶴子が松井さんに「幸せになることをためらわないで下さい」と言った。それに対して、上野さんを石頭で古典的教条的人間であると決めつけて、この発言で松井さんに対して女性としての幸せ、つまり男性との交際や結婚を匂わせていると思った人が多いようです。
しかし、上野さんの言いたいことはそんなことではないと思います。現在の松井さんは過去の不幸な情念や苦痛や怒りを創作の源泉としながら社会的地位を築いてきたのだが、松井さんは現在の幸福を素直に受け入れることができないでいる。なぜなら、幸せになることで自分の創作の原動力を失うことになるかもしれないと思っているように感じたからでしょう。その葛藤を案じての発言だったのでしょう。



2008年6月16日月曜日

『おそいひと』主演・住田雅清インタビュー

X51.ORGに下のような記事がありました。

脳性マヒの殺人鬼 ― 『おそいひと』主演・住田雅清インタビュー

・一部抜粋
住田「今までの障害者が出ている映画はドキュメンタリーも含めて、お涙ちょうだいか頑張る障害者像を描いている映画ばかりで、私はそういう描き方にすごく違和感 と反発を感じていました。実際の障害者の実像はそんなに美しくないし、ドロドロしたものだから、連続殺人は極端かもしれませんが、障害者の中にも頑張らない者もいるし、大酒飲みもスケベエもいるし、詐欺師も泥棒もいます。そのことをこの映画は連続殺人という極端な表現で描いていると思います。」



私も以前から健常者が一方的に描く、
「お涙ちょうだい」なドキュメンタリーを見て
障害者の人たちはどう思うのだろうか、
と疑問に思っていました。

健常者は、想像の中で恣意的に障害者の中に
「悪」や「怠惰」などないと思い込む。
彼らは可哀想な境遇と一生懸命戦っている人だ
という希望的な映像を思い描く。
実はこれも、道徳的な人々が忌み嫌う「差別」に当たるのだ。
人々の障害者イメージから欠けたもの、
地下に潜んでいたものを見なければ、
障害者に対する認識は完全とは言えないのだろう。

こんなこと書きつつも、この映画、見逃しました(笑)
忙しかったから、いつの間にか上映期間が過ぎてました。
DVDでないかなぁ。