2014年1月30日木曜日

防御を固める企業とテレビの限界

Yahooニュースで何度も取り上げられているので、一部の人たちから批判を浴びているという噂のドラマ「明日、ママがいない」を見てみました。
ドラマ自体は、子役たちが一生懸命お芝居をしている、平凡で、無害なものでした。施設長の子供たちに対する乱暴な振る舞いも、後々の展開につながる前振りに過ぎないことは容易に想像でき、現段階でそれを批判するのは、自らの想像力の欠如を露呈するようなものだと思いました。
この「問題」というより、単なる「事象」が起きた根底には、企業経営の潮流の変化があると思われます。
マーケティングやイノベーションなどが経営の攻撃とすれば、「CSR」や「コンプライアンス」は防御です。
ここ10年ほどで、国内外で発生したいくつかの問題を教訓に、日本の大企業は社会における企業の在り方を見つめ直し、それまで意識の弱かった「防御」の方を一斉に強化しているのです。
その結果、忙しい経営陣は、常にリスクの小さい方へと、素早く意思決定する傾向が強まりました。社会の目を気にし、批判されないように、ビクビクしながらなんとか事業を継続していこうという訳です。
更にたちの悪いことに、暇を持て余しているクレーマーの団体や個人は、興奮した狂犬のように振舞いつつも、上述のような状況を理解し、スポンサーをつつけば自らの主張が通りやすいことを知っています。そうして、自己効力感に浸るのです。
その一方で、監修の野島氏は過去から物議を醸しそうなテーマを敢えて扱うことで注目を浴びる戦略を採ってきており、当作品もその種のものです。この戦略は、過去には上手く機能したかもしれませんが、全身が粘膜のように敏感になってしまったやわな大企業とお仕事をするには、如何にもミスマッチな戦略です。
大企業に従属的な民放が新たな価値を提示するような番組を創ることは困難です。民放のビジネスモデルが陳腐化したということではないでしょうか。
この件とほぼ時を同じくして、NHKの新会長として登場した籾井氏の批判を恐れない姿勢には、むしろ微かな期待を抱いてしまう。事実、民放よりもNHKの方がイノベーティブな番組や実験的な番組が多いですし。

2013年5月16日木曜日

戦時下の性に関わる発言とその後の社会現象

橋本徹さんの戦時下の性に関わる発言を廻った
「一連の現象」が私にとって興味深いものになっています。
「性が絡んだ話題に対しては、
 どれほどIQが高くても、どんなにお勉強ができても、どんな知識人でも、
 合理的に議論することが困難になってしまう」

私が以前より考えていた、このことが正に表現された現象ではないかと思うのです。

橋本さんの主張の前提条件は
 ・大戦当時、軍人たちが慰安婦や現地私娼を活用していたのは、日本だけではない。
 ・上記をのようなものを活用して性的エネルギーを発散することは、
  現代の価値観では許されない。その時代に戻ってはならない。
 ・ましてや、強制連行の慰安婦(性奴隷)など絶対に許されい。
  日本については、2007年の閣議で強制連行の証拠はないとされている。
  ただし、意に反した慰安婦がいたとしたら謝罪しなければならない。
 ・軍人の性的亢進という現象は、心理学的にも、歴史的事実からも
  間違いなく起こるもので、その高まった性的エネルギーは、
  性犯罪を防止するためにコントロールされるべきである。
 ・沖縄駐留米軍に(やや皮肉を込めて)奨めた「風俗業」は、合法的なものである。
  (決して、買春ではない)

といったところでしょう。
その上で、
 ・日本だけがレイプ国家だと世界から非難されるのは理不尽であり、
  その不当な批判により国益を失うのは避けるべきである。
 ・(米軍について)沖縄県民に対してレイプするくらいなら、
  合法的な「風俗業」を利用し、法の秩序の中で性的エネルギーを
  コントロールしてほしい。

と主張しているのです。

全くもって全面的に筋が通っていると思います。
唯一、ロジックに穴があるとしたら、
軍人の性的エネルギーのコントロールの方法について、
従来から存在し、誰もが簡単に思いつくであろう、
「風俗業を利用する」という解決法を提案することに
留まってしまっていることくらいかと思います。
現状は風俗業活用くらいしか方法がないが、
より有効な方法を研究することが人類の課題である、
とでも付しておいた方が角が立ちにくかったでしょう。
また、橋本さんは繰り返し
「なぜ日本だけがレイプ国家だと誤解されているのか考えなければならない」
と述べています。
残念ながら現状は、韓国のロビー活動や
国内のリベラリストと称する歪んだ思考の持ち主たちの活動が
見事に成功しており、彼らが世界中に流布した間違った認識を
修正していく必要があるということを暗に示しているものと思われます。


注目すべきは、橋本さんの主張に対する批判が悉く筋違いであることです。
批判する人たちの言葉に敢えて一々反論していくと、
逆に橋本さんの主張が合理的であることを裏付けることができます。
その典型的なパターンについて見ていきましょう。

①女性の人権を侵害している。
 していません。
 あくまで、合法的なものを活用するべきと述べています。
 風俗業に従事する者は自分の意思で、日々多くの人の嫌がる仕事をして、
 一定の社会的役割を果たし、一般の平均よりも高い報酬を得ています。
 ニュースで目にしましたが、横断幕を掲げて活動をする「女性団体」は、
 さながらピクニックに来ているようなもので、仲間で集まれそうなネタに釣られて、
 碌に相手の主張を理解せず、騒いでいるに過ぎません。
 彼らの目的は、集団の結束固め、
 社会へのコミットを深めること、
 身体的には失われつつある女性であることの実感の回復です。
 風俗業が人権侵害だというのならば、批判の矛先は法律に向かうべきです。
 「女性団体」を名乗るのであれば、
 もっとロジカルに責任を持って、女性の役に立つ活動をしてほしいものです。

②沖縄県民を侮辱している。
 していません。
 沖縄は大きな負担を背負いながらも、
 日米安保において大きな役割を果たしてくれていることを認めています。
 また「風俗業活用」は米軍の性犯罪から沖縄県民を守るための一案であり、
 アメリカへの皮肉の表現です。

③時代を逆行しようとしている。
 していません。
 当時の実態は恥ずべき状態であり、
 当時のような管理の行き届いていない仕組みは
 現代では許されないと述べています。
 その恥ずべきことを日本だけでなく、世界中が行っていました。

④性的欲求は個人の責任で抑制するべき。
 できる人はできる。できない人はできない。
 軍人1万人がいて、9999人が良識を守れたとしても、
 1人が性犯罪を犯せば大問題になります。
 生命に関わる緊張状態は種の保存の原理により、
 性欲増大につながります。
 それだけでなく、戦時下も含め、占領地に駐留する軍人は、
 占領地の現地人を侮蔑したり敵対視しやすく、
 また自国の法律の影響力から解放されているような錯覚を受けやすく、
 さらに秩序を無視して殺人、強盗、レイプなどを実行しうる
 武力を保持している環境にあるという、これらの条件により、
 犯罪を犯すリスクが一般人よりも高まります。
 組織を束ねる責任者には、そのリスクを減少させる方策を立案する責務があります。
 気合いで性欲を抑えろと指導するマネジメントや
 厳しく指導しますと言うマネジメントは前近代的で、最低のマネジメントです。
 リスクに対してメカニズムを分析し、そのメカニズムに対して対策を講じることで、
 0.01%で起こるものを0.001%にしようとするのが現代のリスクマネジメントの常識です。
 これが理解できない軍司令官、政治家、経営者、医療関係者は失格です。


なぜ性について語ろうとすると、このような思考の誤謬が起きやすいのか。
(私の興味はこれまでの話よりも、ここにあります)
多くの人々に一様に非合理な言動が見受けられた場合、
その裏には心理学的な原理が隠されていることがしばしばあります。
私なりには次のようなことではないかと思います。

一つは道徳教育にあるでしょう。
性対象は特定の異性に限定しなければならない、
性行為は正常な方法で行わなければならない、
性を商売にしてはならない、
といった教育は、社会の性的秩序を守る為に必要です。(特に子供に対して)
しかし、合法的であるならば、良識ある者が自らの秩序の中で、
こうした教えを逸脱しても問題はありません。
その一方で、教条的に道徳を振りかざす者は、
その行動によって簡単に正義の側に立つことができ、
それによって優越感を得ています。
また、道徳に従うことが多数派であり、
その道徳を活用することで正義の代弁者を演じることが出来る為、
政治家にとって利用しやすいのです。
橋本さんは「僕は建前よりも実をとる政治家だ」というが、
多くの政治家は「実よりも建前(票)を取る」。
票を取るのが目的ならば、統計学に従うべきで
後者が正しいことになります。
政治家がどの程度意識的に上述のような行動選択をしているかは不明ですが。

他方、性に関する若干常識を超えた意見に対する
人々の過剰なまでの拒絶や批判といった反応からすると、
次のようなことも考えられます。
人間は、生殖のプロセスに異常があると他者から認識された場合、
生物として欠落していると看做される恐れがあり、
それは種の保存の上で大きなマイナスになる為、
無意識的な防衛体制に入るのではないかと考えます。
典型的な例としては、
ヘテロの男性がゲイと誤認されそうになると、
慌てて訂正しようとします。
ゲイと誤認されれば、女性が遠ざかり、
生殖の機会を失い、種の保存が困難になる為です。
非合理な批判によって、今回の議論から逃避しようとする
政治家やインテリぶった評論家やタレントを目にすると、
無意識的な生命の足掻きのようなものが垣間見えた瞬間だなと、
興味深く見入ってしまうのです。

以上は誰かの意見に賛同したり、批判したりして
議論に加わりたい訳ではありません。
橋本さんと橋本さんを批判する人たちの主張を比較した際に、
合理性の有無という点で、両者間に明らかなコントラストが
発生しているということを切り口に、
いろいろと考えを廻らせたというものです。

2012年12月12日水曜日

精神病的症状とフェティシズム

精神病とフェティシズムについて独自の観点で考察してみます。

フロイトは足や髪、衣服などを性の対象とするフェティシズムは
幼児期の体験に基づくものと考えています。
確かに、口唇期や肛門期の快楽が成人になっても遷延されて、
通常の性欲と絡み合ったというフェティシズムの形態はあると思います。

以下は、フェティシズムの一つの素因として
精神病があるのではないかという話です。

少しネットサーフィンをして調べてみましたが、
精神病の症状に対する不安や、そこから逃避しようとする意図が、
性の様式を歪めているというメカニズムで
論じているものが多いと感じました。
その可能性もあると思います。

しかし、私は別のアプローチで考えてみました。
私の仮説は要するに、フェティシズムは精神病的症状を
再現しようとして引き起こされる、ということです。
例を挙げてみます。



■例1:離人症とゼンタイフェティシズム
離人症というものがあります。
これは統合失調症や極度の疲労状態で起こるもので、
他者や身の回りの事物との間に分厚い壁があって、
自分と関係があるようには感じられない、
という感覚が起こるものです。

この無い筈の壁は不安を引き起こします。
そこで実際の壁を作る、すなわち、全身タイツを着用することで
世界との間に壁を築きます。
 その瞬間の外界との隔絶感は全身タイツによるものなので、
離人感から解放される。

全身タイツで人目にさらされた時、確かに他者はこちらを見るが、
「自分を見ているようで、見えていない」のです。
これは正に離人感の再現です。
他者が、自分の存在には気づくが、
自分のことがはっきりとは見えていないという原因を、
全身タイツに帰することができるので、
隔絶感による不安から解放されるのです。
全身タイツ以外にも、マスクや仮面、ラバースーツなどで
外界との隔絶感を再現することもできます。

■例2:自閉症と拘束フェティシズム
ここで扱う自閉症は、発達障害の一つの自閉症ではなく、
統合失調症の症状としての自閉症です。
ブロイラーによれば、自閉症は
「内的生活の比較的あるいは絶対的優位を伴うところの現実離脱」
と定義される。
こうした人間における外界は、もはや現実的意味を失い、
自分だけの空想的世界にのみ生きる。
外部からは寡黙で人を寄せ付けぬ冷たさと映る。
ミンコフスキーは「現実との生きた接触の喪失」と規定し、
かつ貧しい自閉と豊かな自閉とを区別した。
自閉の中にも非現実的ではあるが
空想豊かで行動的なタイプのあることを示した。

こうした「外界を捨て、内界に篭る」という
自閉症の特徴に着目したい。
自閉症者は、外界と関係を持てずに焦燥感を覚えます。
そこで、自分の体を拘束してしまうのです。
拘束されることで外界と関わる術を失っている為、
心置きなく外界との関係を断絶し内に篭ることができるのです。



このように苦悩や違和感をもたらす精神病的症状を
敢えて物質的に再現することで、そこから解放されるのです。
あるいは、外界とは相容れない精神病的状態が
その人にとっての理想の現存在様式になっていて、
その状態を明確に表現することにより
快楽を得ることができると考えるのです。

2012年12月9日日曜日

障害者考

今回の記事は単に私的な障害者への認識に関する話であり、
障害者を大事にしましょう、といった
真面目腐った話でも、
教条的な話でもありませんことご注意を。



無意識的かつ残酷なまでの合理性をもつ社会において、
障害者は闇だ。

ある者は障害者を遠ざける。

ある者は障害者に対して目を塞ぐ。

ある者は障害者に対して過保護になる。
……これには良い面もあるが、
頭ごなしに障害者を"全面的"弱者として見做すことで、
劣っている部分ばかりを注視する意識、
劣っているものを補完してあげようという意識が高まる。
障害者の持ち得る正常に機能する多くの部分、
当たり前の感情、絶対的な本能(特に性欲)、
これら健常者と変わらぬものが、そこでは抜け落ちている。
大きすぎる善意が障害者を総体的な一個人として見做すことを阻害し、
障害によってのみ障害者を同定する思考に陥り、核心を闇に葬っている。

この「障害者に対して過保護な人」の無意識的な目的は、
実のところ障害者を助けることではなく、障害にコミットすることで、
自らが困難を克服する疑似体験をすることのように思われる。
それだけに、視野を狭め、障害者のウィークポイントを
熱く注視することに意味が発生する。
社会的互恵関係を築いている実感は、自らの心理的報酬になり得るものだ。

彼らの爛々とした障害者への眼差しには、
私を含め多くの人が気味悪く感じているであろうし、
障害者自身も同じような不気味さ(即ちバリア)を
感じているのかもしれない。(バリバラの出演者も同様の発言をしていた)
ただ、行為自体は利他的であることに間違いないところが複雑だ。
障害者が感じる
「良い事をしてもらった際に生じる
 感謝の気持ちと同時に湧き立つ得も言われぬ違和感」
が言語化しづらい感覚である為、
しばしば単に「バリア」と表現される事が多いようだ。

障害者でも、自己中心的だったり、攻撃的だったりして、
まともに付き合えないと思えば、突き放せばいいし、
意見が食い違えば、討論してもよいと思う。
それが普通の人と人との付き合い。

社会が必要に応じて障害者の生活を支援することは、
第一義的事項であることが明確なので、
斜に構える当ブログが特に言及することはないが、
以前から長年(教育課程からか?)
世間の障害者に対する眼差しに違和感を覚えていた為、
私自身の中で改めて咀嚼し、頭の中を整理しておきたかった、
というのが今回のお話でした。

上述のようなことは、専門書なんかでは、
当然に書かれている事かもしれないし、
日常的に障害者と接している人が、
自然と身に付けている態度なのかもしれません。


そういえば、フェティッシュな業界で有名な
黄金咲ちひろさんという方が
障害者にSMプレイをするという活動をしていたのを思い出した。
マゾヒストの障害者に遠慮無く鞭を打てたら
それは、「真のバリアフリー」だ。


2012年12月8日土曜日

NHK「バリバラ」~障害を笑いに~


NHKの「バリバラ」SHOW-1グランプリを見た。

内容は、途中松本ハウスの統合失調症コントを挟みつつ、
7組の障害者が漫才やコントをするというもの。
笑いとしてイマイチなものもあれば、完成度の高いものもあったが、
そもそも試みとして面白い。

コンプライアンスという言葉に抑えつけられ、
気の抜けたビールのような番組しか制作出来なくなった
民放にはできない番組でしょう。

笑いという枠組みにおいて、障害は単なる「他者との差異」であり
観客に「新たな気づき」を与える有効なツールとなる。
あるあるネタにはうってつけだ。

SHOW-1グランプリは年々レベルが上がっているとのこと。
障害という大きな武器をこれ見よがしに振りかざすのではなく、
バリアを忘れさせるまでにネタのクオリティを向上させ、
プロの芸人を「やられた」と思わせるほどの
出場者がもっと現れてくれば、この試みは次なる段階に進めると思う。

それにしても、出場者の一人のTASKEさんには、
コメンテーターのタレント達もどう受け取っていいのか迷っているようだった。
迷うのも無理もない。TASKEさんがぶっ飛んでいるのは、障害とは無関係だからだ。

5年くらい前、mixiをやっていた頃、マイミクのマイミクに
TASKEさんがいたのを記憶しています。
その頃からぶっ飛んでいたので強く印象に残っていました。

この番組では、以前「障害者のセックス」についても取り上げており、
これらを見た際に、障害者について改めて思うところが
自分の中に沸々と現れてきたので、近いうちに記事にします。




2012年8月13日月曜日

デザインフェスタvol.35

随分古い話ですが、デザインフェスタvol.35に行ってきましたので、
その様子を紹介します。

偉伝或(ソードパフォーマンス集団)
DF35-1.JPG

DF35-2.JPG

DF35-3.JPG
デザインフェスタは散々歩き回ってくたびれても、
座って休憩する所がほとんどありません。
仕方なく屋内ステージの観客席に座りました。
そこで丁度始まったのがこれでした。
なかなか見応えがありました。

・鳥肌翼賛会
DF35-4.JPG
鳥肌実さんにも会えました。

氏賀Y太×キリュウレイアUZIGA
DF35-5.JPG

GlamorousGrammar
ここでポストカードを買いました。
隅田かずあさ

個人的にデザインフェスタに若干のマンネリ感を覚え始めていたのですが、
今回は面白いアーティストさんが多かった気がします。

2012年5月18日金曜日

『性倒錯─様々な性のかたち』ジェラール・ボネ(PART4)

part4です。このシリーズはそろそろこの辺にしておきます。


露出症
・露出症は他の殆どの倒錯と同じように、同類の行為に対して排他的である。ヌーディズムや挑発的な見せ物を歓迎しない。

・1900年、ガルニエの露出症の定義
「露出症とは、執拗で衝動的な性倒錯であり、時間と場所をある程度決めた上で、公衆の面前で弛緩状態にある性器を卑猥で挑発的なやり方をとらずに見せびらかしたいという欲求を特徴とする。この行動の中には、露出症患者のあらゆる性的食指が凝縮されているのであるが、行動に移すことによって、頭から離れることの無かった執拗な戦いに終わりを告げ、やがて幕が閉じられることになる。露出症者は、自分の性器を見せびらかすことによって得られた心的反応によってしか快楽を得ることができない。」

露出症の様々な形(エイガー)
・非直接的な露出:手紙やメールなどでみだらな写真を送付する
・何かを仲介させる方法:自分やパートナーの私的な写真を作成し、ネットやビデオ等で広める。
・愛の営みの露出:車の中、公園、海岸などで営みを見せる方法。
・自分の子供への露出:リベラリズムの名の下で見せる方法。
・社会的露出:人生において成功するために、何としてでも人から注目される必要がある場合。深層に性的な露出欲を同じ程度持ち合わせており、ポルノ制作を助長するものである。

病的症状

①仕草:性器を見せつける方法は様々である。それは、行為であるサディズム、実践であるマゾヒズムとは異なり、人類学の範疇に分類される。これらの仕草には、わいせつ、侮辱、破廉恥といった意味が内包されている。

③他人の視線を集めること:他人の眼差しこそが、露出症者の問題系の中心にある。M・ボスはそれを眼差しのコミュニケーションと呼び、ラカンはそこに主体が自分のものにしようとしている現実的対象を見出している。露出症者は、見られれば見られるほど、また、それがどんなやり方であったとしても、自分の術作に興味を持ってもらえればもらえるほど、行為を大げさにする傾向がある。無関心な反応は、彼等を不安で無防備な状態にさせるばかりか、抑うつ状態に陥らせることもある。そのため、しばしば全く無意識のうちに前もって入念に準備しており、自分のやり方にこだわりがある。

④予め細部に渡り明確にされた環境の下で:先に述べた殆どの倒錯行為の様に、露出症者は細かく状況設定をしたシナリオを用意している。彼らの仕草から無意識の構成物を見つけることが出来る。
場所:教会、地下鉄、映画館、広場など。反対に、トイレや灌漑路、車中など人気のない場所が選ばれる場合もある。
時間:早朝、日暮れ、深夜。時間の選択には何らかの意味がある。
道具:新聞、タオル、スイング式の戸等の道具や、マント、レインコート、帽子など洋服を利用することがある。これにより、驚きの効果を演出したり、隠したり見せたりというゲームの支配者になることが出来る。
対象者:女性の場合が多い。子供や男性の場合もある。一人あるいは少人数の集団が狙われる。何らかの無意識的な基準、感受性によって選択される。
目撃者:露出症の物語の中で、権力を象徴する目撃者が重要な役割を果たしている。刑罰を求める露出症者は、目撃者に挑戦し、その人物を窮地に陥れたり、場合によっては窮地から逃れさせようとしたりする。その意味で、露出症は典型的な目標倒錯である。
精神分析では、初回の露出には特別な注意が向けられる。初回の露出は最も重要な意味を持っている。

・フロイトの指摘
①「露出症者は他人の性器を見る為に、自らの性器を露出するのである」『性欲論三編』
②「露出症は一次ナルシシズムの問題であると述べている。ファルスを所有していると確信を得るという、それだけの目的の為に、眼差している主体を単純に置換しているのである。」『メタサイコロジー』
③「露出は去勢不安に対するファリックな再確認である。露出の対象者は、彼らの不安の原因を具体化するために存在し、目撃者は自分の能力を証明するために使われる。」『メドゥーサの頭』


窃視症
1.症状
①仕草
 窃視症者は動かず、同じ姿勢を維持し集中するため、それと分かる。

②見せていないものを見ようとする
 彼等はプライベートな時間(陰部の手入れの最中、生理的欲求の発現、性的快楽を求めているときなど)を捕まえようとする。その快楽の本質は「断片への偏執」である。(ヘニング)

③ますます巧妙な方法をとること
 窃視症者は自らの快楽を増大させるための技術や手段に工夫を重ねる。こうした手段は、ファンタズムにおける、能動的視覚過程に対応しており、自分の思い通りに拡大、縮小、出現、消滅が可能である。

2.無意識の意味作用
フロイトに依れば、窃視症は内的暴力性を含む事を運命づけられた編集作用であり、見ることそのものが、内的暴力性を含んでいる。(ゴディバ夫人の例)
・恥をかかせることはしばしば暴力を凌ぐ力を持っている。窃視症者は、この暴力性を自分のものとしている。
・窃視症者は、徹底して、絶対的で、妥協の無い懐疑主義者である。(エスナール)
・今日的な写真芸術は、そのかなりの部分が覗き趣味である。一方、執拗に女性を被写体にして撮っている写真家は、自分の持たない性器を変容して見せようとする露出症者とおなじように、間接的に自分を露出しているようなものである。






服装倒錯

①服装倒錯の諸形態
ストーラーの分類
・異性装…単に異性の衣服を身につけること。生物学的性と心理的性が異なる場合。
・服装倒錯…性行為のときにだけ異性装を行う者。倒錯に属する。
ロゾラートの分類
・異性愛的服装倒錯…フェティシズムに類似する。断続的、熱狂的で、性行為時に限定される場合が多い。
・露出症的服装倒錯…華やかさが重要視され、目撃者が必要とされる。ファリックな母親に自らを同一化している。
・ホモセクシャルな服装倒錯…男性娼婦の場合が多く、誘惑という意味合いが強調されている。
・どの学者も、服装倒錯を同性愛や排他的同性愛とも区別するべきであるとする点では、意見が一致している。

②服装倒錯の意味作用
・サディスティックな行為との類似は、服装倒錯者が犠牲者の衣服を振りかざすことである。犠牲者の衣類は、戦利品の効力をもつ。
・マゾヒストのシナリオと似ている点は、服装倒錯者が犠牲者の役割を演ずる為に犠牲者と同じ衣服を用いてその屈辱を利用することである。
・フェティシズムとは、服装倒錯者が自らの欲望を呼びさまし、隙間の無い感覚を確かなものとするものを身につける点で類似している。これにより、全能の理想化された父親と自分を同一視している。
服装倒錯は以下の2段階の間を揺れ動いている。
・一次同一化…倒錯者が男性と女性のどちらでもありたいとする段階である。想像的に、あらゆる特権と能力を持ち合わせていて、衣服が自分に不足しているものをもたらすとみなされる。
・二次同一化…男性か女性かという選択を命じられる段階である。万能でありたいという欲望から、解剖学上の男女を入れ換えようとする。衣服はその逆転を可能にするものとみなされる。
衣服には、欠けているものを補う、男女の役割を自発的に逆転させるという二重の意味がある。服装倒錯は、人類学的な行動の謎(ファッション、カーニバル・通過儀礼的な仮装)を解き明かすことに役だっている。

③女性の服装倒錯
女性の服装倒錯が性的領域にとどまることは稀である。女性の服装倒錯は「露出症的」である(ロゾラート)。

④古代キリスト教における女性の服装倒錯
例:アンティオキアのペラジー、ビテュニアのマリナ、アレクサンドリアのウジェニー、コンスタンチノープルのアナスタジー、トゥールのパピュラ
・グノーシスの影響を受け、社会の典型と断絶したいという欲望の表れ。つまり、旧約聖書の創世記で描かれている、神が人類の男女を創造した楽園の最初の状態に戻りたいという願望が表現されていた。女性の服装倒錯は、キリスト教が抑圧してきた、キリスト教以前の神話を無意識に行為化している。