精神病とフェティシズムについて独自の観点で考察してみます。
フロイトは足や髪、衣服などを性の対象とするフェティシズムは
幼児期の体験に基づくものと考えています。
確かに、口唇期や肛門期の快楽が成人になっても遷延されて、
通常の性欲と絡み合ったというフェティシズムの形態はあると思います。
以下は、フェティシズムの一つの素因として
精神病があるのではないかという話です。
少しネットサーフィンをして調べてみましたが、
精神病の症状に対する不安や、そこから逃避しようとする意図が、
性の様式を歪めているというメカニズムで
論じているものが多いと感じました。
その可能性もあると思います。
しかし、私は別のアプローチで考えてみました。
私の仮説は要するに、フェティシズムは精神病的症状を
再現しようとして引き起こされる、ということです。
例を挙げてみます。
■例1:離人症とゼンタイフェティシズム
離人症というものがあります。
これは統合失調症や極度の疲労状態で起こるもので、
他者や身の回りの事物との間に分厚い壁があって、
自分と関係があるようには感じられない、
という感覚が起こるものです。
この無い筈の壁は不安を引き起こします。
そこで実際の壁を作る、すなわち、全身タイツを着用することで
世界との間に壁を築きます。
その瞬間の外界との隔絶感は全身タイツによるものなので、
離人感から解放される。
全身タイツで人目にさらされた時、確かに他者はこちらを見るが、
「自分を見ているようで、見えていない」のです。
これは正に離人感の再現です。
他者が、自分の存在には気づくが、
自分のことがはっきりとは見えていないという原因を、
全身タイツに帰することができるので、
隔絶感による不安から解放されるのです。
全身タイツ以外にも、マスクや仮面、ラバースーツなどで
外界との隔絶感を再現することもできます。
■例2:自閉症と拘束フェティシズム
ここで扱う自閉症は、発達障害の一つの自閉症ではなく、
統合失調症の症状としての自閉症です。
ブロイラーによれば、自閉症は
「内的生活の比較的あるいは絶対的優位を伴うところの現実離脱」
と定義される。
こうした人間における外界は、もはや現実的意味を失い、
自分だけの空想的世界にのみ生きる。
外部からは寡黙で人を寄せ付けぬ冷たさと映る。
ミンコフスキーは「現実との生きた接触の喪失」と規定し、
かつ貧しい自閉と豊かな自閉とを区別した。
自閉の中にも非現実的ではあるが
空想豊かで行動的なタイプのあることを示した。
こうした「外界を捨て、内界に篭る」という
自閉症の特徴に着目したい。
自閉症者は、外界と関係を持てずに焦燥感を覚えます。
そこで、自分の体を拘束してしまうのです。
拘束されることで外界と関わる術を失っている為、
心置きなく外界との関係を断絶し内に篭ることができるのです。
このように苦悩や違和感をもたらす精神病的症状を
敢えて物質的に再現することで、そこから解放されるのです。
あるいは、外界とは相容れない精神病的状態が
その人にとっての理想の現存在様式になっていて、
その状態を明確に表現することにより
快楽を得ることができると考えるのです。
2012年12月12日水曜日
2012年12月9日日曜日
障害者考
今回の記事は単に私的な障害者への認識に関する話であり、
障害者を大事にしましょう、といった
真面目腐った話でも、
教条的な話でもありませんことご注意を。
無意識的かつ残酷なまでの合理性をもつ社会において、
障害者は闇だ。
ある者は障害者を遠ざける。
ある者は障害者に対して目を塞ぐ。
ある者は障害者に対して過保護になる。
……これには良い面もあるが、
頭ごなしに障害者を"全面的"弱者として見做すことで、
劣っている部分ばかりを注視する意識、
劣っているものを補完してあげようという意識が高まる。
障害者の持ち得る正常に機能する多くの部分、
当たり前の感情、絶対的な本能(特に性欲)、
これら健常者と変わらぬものが、そこでは抜け落ちている。
大きすぎる善意が障害者を総体的な一個人として見做すことを阻害し、
障害によってのみ障害者を同定する思考に陥り、核心を闇に葬っている。
この「障害者に対して過保護な人」の無意識的な目的は、
実のところ障害者を助けることではなく、障害にコミットすることで、
自らが困難を克服する疑似体験をすることのように思われる。
それだけに、視野を狭め、障害者のウィークポイントを
熱く注視することに意味が発生する。
社会的互恵関係を築いている実感は、自らの心理的報酬になり得るものだ。
彼らの爛々とした障害者への眼差しには、
私を含め多くの人が気味悪く感じているであろうし、
障害者自身も同じような不気味さ(即ちバリア)を
感じているのかもしれない。(バリバラの出演者も同様の発言をしていた)
ただ、行為自体は利他的であることに間違いないところが複雑だ。
障害者が感じる
「良い事をしてもらった際に生じる
感謝の気持ちと同時に湧き立つ得も言われぬ違和感」
が言語化しづらい感覚である為、
しばしば単に「バリア」と表現される事が多いようだ。
障害者でも、自己中心的だったり、攻撃的だったりして、
まともに付き合えないと思えば、突き放せばいいし、
意見が食い違えば、討論してもよいと思う。
それが普通の人と人との付き合い。
社会が必要に応じて障害者の生活を支援することは、
第一義的事項であることが明確なので、
斜に構える当ブログが特に言及することはないが、
以前から長年(教育課程からか?)
世間の障害者に対する眼差しに違和感を覚えていた為、
私自身の中で改めて咀嚼し、頭の中を整理しておきたかった、
というのが今回のお話でした。
上述のようなことは、専門書なんかでは、
当然に書かれている事かもしれないし、
日常的に障害者と接している人が、
自然と身に付けている態度なのかもしれません。
そういえば、フェティッシュな業界で有名な
黄金咲ちひろさんという方が
障害者にSMプレイをするという活動をしていたのを思い出した。
マゾヒストの障害者に遠慮無く鞭を打てたら
それは、「真のバリアフリー」だ。
障害者を大事にしましょう、といった
真面目腐った話でも、
教条的な話でもありませんことご注意を。
無意識的かつ残酷なまでの合理性をもつ社会において、
障害者は闇だ。
ある者は障害者を遠ざける。
ある者は障害者に対して目を塞ぐ。
ある者は障害者に対して過保護になる。
……これには良い面もあるが、
頭ごなしに障害者を"全面的"弱者として見做すことで、
劣っている部分ばかりを注視する意識、
劣っているものを補完してあげようという意識が高まる。
障害者の持ち得る正常に機能する多くの部分、
当たり前の感情、絶対的な本能(特に性欲)、
これら健常者と変わらぬものが、そこでは抜け落ちている。
大きすぎる善意が障害者を総体的な一個人として見做すことを阻害し、
障害によってのみ障害者を同定する思考に陥り、核心を闇に葬っている。
この「障害者に対して過保護な人」の無意識的な目的は、
実のところ障害者を助けることではなく、障害にコミットすることで、
自らが困難を克服する疑似体験をすることのように思われる。
それだけに、視野を狭め、障害者のウィークポイントを
熱く注視することに意味が発生する。
社会的互恵関係を築いている実感は、自らの心理的報酬になり得るものだ。
彼らの爛々とした障害者への眼差しには、
私を含め多くの人が気味悪く感じているであろうし、
障害者自身も同じような不気味さ(即ちバリア)を
感じているのかもしれない。(バリバラの出演者も同様の発言をしていた)
ただ、行為自体は利他的であることに間違いないところが複雑だ。
障害者が感じる
「良い事をしてもらった際に生じる
感謝の気持ちと同時に湧き立つ得も言われぬ違和感」
が言語化しづらい感覚である為、
しばしば単に「バリア」と表現される事が多いようだ。
障害者でも、自己中心的だったり、攻撃的だったりして、
まともに付き合えないと思えば、突き放せばいいし、
意見が食い違えば、討論してもよいと思う。
それが普通の人と人との付き合い。
社会が必要に応じて障害者の生活を支援することは、
第一義的事項であることが明確なので、
斜に構える当ブログが特に言及することはないが、
以前から長年(教育課程からか?)
世間の障害者に対する眼差しに違和感を覚えていた為、
私自身の中で改めて咀嚼し、頭の中を整理しておきたかった、
というのが今回のお話でした。
上述のようなことは、専門書なんかでは、
当然に書かれている事かもしれないし、
日常的に障害者と接している人が、
自然と身に付けている態度なのかもしれません。
そういえば、フェティッシュな業界で有名な
黄金咲ちひろさんという方が
障害者にSMプレイをするという活動をしていたのを思い出した。
マゾヒストの障害者に遠慮無く鞭を打てたら
それは、「真のバリアフリー」だ。
2012年12月8日土曜日
NHK「バリバラ」~障害を笑いに~
NHKの「バリバラ」SHOW-1グランプリを見た。
内容は、途中松本ハウスの統合失調症コントを挟みつつ、
7組の障害者が漫才やコントをするというもの。
笑いとしてイマイチなものもあれば、完成度の高いものもあったが、
そもそも試みとして面白い。
コンプライアンスという言葉に抑えつけられ、
気の抜けたビールのような番組しか制作出来なくなった
民放にはできない番組でしょう。
笑いという枠組みにおいて、障害は単なる「他者との差異」であり
観客に「新たな気づき」を与える有効なツールとなる。
あるあるネタにはうってつけだ。
SHOW-1グランプリは年々レベルが上がっているとのこと。
障害という大きな武器をこれ見よがしに振りかざすのではなく、
バリアを忘れさせるまでにネタのクオリティを向上させ、
プロの芸人を「やられた」と思わせるほどの
出場者がもっと現れてくれば、この試みは次なる段階に進めると思う。
それにしても、出場者の一人のTASKEさんには、
コメンテーターのタレント達もどう受け取っていいのか迷っているようだった。
迷うのも無理もない。TASKEさんがぶっ飛んでいるのは、障害とは無関係だからだ。
5年くらい前、mixiをやっていた頃、マイミクのマイミクに
TASKEさんがいたのを記憶しています。
その頃からぶっ飛んでいたので強く印象に残っていました。
この番組では、以前「障害者のセックス」についても取り上げており、
これらを見た際に、障害者について改めて思うところが
自分の中に沸々と現れてきたので、近いうちに記事にします。
登録:
投稿 (Atom)