2015年2月15日日曜日

アンドロイドと人の心 ~アンドロイドが社会に溶け込むとき~

 先日、初めて科学未来館へ行きました。



 ドームシアター(プラネタリウム)が目的だったので、その他の展示は全くリサーチ無しで行きました。全体を通じて子供向けな雰囲気ですが、大人もそれなりに楽しめます。
 到着して常設展示を見に行くと、ちょうどASIMOのデモンストレーションが始まるところでした。


 不安定そうな二本足の物体がスムーズに歩く様子を子供も大人も面白がっていました。
 長らくASIMO開発は継続されていますが、デモ中の説明も含め、2足歩行の動作制御に偏りすぎている気がします。個人的には、もっとAIを駆使して、自分で外界の現象を認識し、抽象的な指示に対しても、自分で解釈して行動できるという方向に進まないかなと期待しています。クラウドも取り入れられそう。

 大阪大学の石黒教授のアンドロイドも『オトナロイド』として展示されていました。
 他のお客さんは口々に「気持ち悪い」と言っていました。石黒教授によれば、アンドロイドの容姿がヒトに近づくほど、人々は気持ち悪さを覚えるという。
 ヒトに似せた物体である「人形」に不気味さを覚えるのも同じようなことで、「ヒトであってヒトでないもの」に心的な抵抗が生じるのだと思う。
 しかし、アンドロイドがさらに人に近づいていけば、その気持ち悪さが消える瞬間があるはずであり、その瞬間が、ヒトとアンドロイドの境界を考える上で重要なポイントとなる。 





 
 もう一つ考えさせられるのは、このアンドロイドが「インターフェース」の役割を果たしているということです。
 実演の時間では、科学未来館のスタッフが、このアンドロイドを操作し、声を発して、「客いじり」をしたり、アンドロイドの説明をする。この時、このアンドロイドは人と人との間を繋ぐツールとなっているのです。こういう形のスマホだと思ってもいいと思う。スマホと異なるのは、「ヒトの形」をしていることであり、このアンドロイドと相対した時、本物の人と対峙している時と同様の心的現象を相手に引き起こすことができる点にあります。アンドロイドであっても、じっと見つめられると気恥ずかしく感じるものだし、笑顔を向けられるとこちらもつられてしまう。
  このインターフェースは、「ヒトの形」というツールを利用して、相手に何らかの心的現象を引き起こすことができるということです。
 だから、そんなアンドロイドを使って気安く「客いじり」をするのはやめてもらいたい(笑)

 そんなアンドロイドの特性を最大限活用したのが、『テレノイド』です。



 

 「ヒトらしきもの」をツールとしているロボットの他の例としては、ソフトバンクの『Pepper』があります。こちらは、ヒトの姿に似せるのではなく、AIにより「ヒトらしい会話」をすることで相手に「ヒト」を感じさせるものです。 



 ASIMOは動作をヒトに似せようとしているが、それよりも姿や会話によってヒトらしさを感じさせるロボットの方が直接的かつ深く人の心に訴えかけるものがあるので、早く社会に溶け込んでいきそうです。

 個人的には、精巧なセクサロイドができれば、人々の抱える悩みや、多くの社会問題が解決に近づく気がします。この話は長くなりそうなので、またいつか。



- Ending music -





2015年2月11日水曜日

本当はテロと相容れないイスラム教 ~宗教とテロを再考する~

 真っ当なイスラム教徒はテロとイスラム教は関係ないと訴える。
 確かにそうだなと思いつつ、ちゃんと考えたことがなかった為、私なりに整理してみた。
  

テロの根源にあるもの
 テロが起こる条件は、そもそも何だろうか。 大きくは2つあると思う。

1.無政府状態(政府があっても正規軍が脆弱)
2.社会への不満(貧困、不平等、失業、等)


 厳しい現実を直視できないままもがいているうちに、有り余るエネルギーやネガティブな感情をぶつける方法を模索する。そんな時、生き生きとした活動的な同世代の若者と出会う。彼と意気投合し、彼の仲間の元へ連れて行ってもらうと、それがテロリストグループだった。
 大体、そのような流れだろうと思う。



テロを起こすのはイスラム教だけではない

 イスラム教だけが、テロを引き起こしやすい宗教なのだろうかと少々調べてみたが、どうやら違うようだ。イスラム系以外の過激派の例は下記の通り。


カトリック系

プロテスタント系

※イスラムとの和平を説いたガンディーを殺害したのもヒンドゥー過激派



本当はテロと相容れないイスラム教
 聖典コーランの教義を素直に読んでいけば、テロが入り込む余地はないようだ。但し、テロリストに都合よく悪用されやすい記述も確かにある。


イスラム教の神の摂理の下では、誰も正当な理由無くして捕虜になることはない。戦争捕虜は唯一、通常の宣戦布告がなされた戦争や戦闘の場合のみにとらえられ、他の理由や口実の下にはとらえられない。聖コーランは以下の様に述べている。
「正規の戦いで打ち負かした敵に非ざれば、捕虜とするは預言者には相応(ふさわ)しからず。」 (8:68)



「おお、人々よ、あなたがたはまだ戦争の捕虜を扱っている。故に、私はあなたがたに助言する。あなた方が着る服、食べる食物と同様な物を彼らにも与えるように…..。彼らに痛みや苦悩を与えることは決して許されない。」



「戦争が終わったら、捕虜たちは恩恵の行為として、または身代金の支払いにより、 または相互交換交渉によって解放されるべきである。」



 ジハードは大きく2つのカテゴリーに分けることができる。
 第一は偉大なるジハードである。これは罪深い性向を抑制する自分自身の人格に対するジハード、すなわち自己の浄化である。これは最も困難なジハードであり、故に報酬と祝福の観点から見れば最高のカテゴリーのジハードである。
 第二は、小ジハードである。これは剣のジハードである。これは共同参加のジハードであり、ある特定の条件を前提とする。コーランが語っているのは、イスラム教徒を先制攻撃した者に対する戦闘のみであり、これは聖コーランの他の詩にも規定されている。



平和を乱す全ての営みと活動はイスラム教では厳しく非難されている。聖なるコーランには特定の禁止命令が見出せる。
「そして、地上が整えられた後、無秩序を起こしてはならない….」 (7:57;11:86; 29:37)
危害や邪悪は他のいくつかの詩でも非難されており、イスラム教徒はひとえに平和のために力を尽くすように命じられている。



全ての宗教の信者の基本的結束が聖なるコーランで力強く繰り返し強調されている。
「げに信ずる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにサービア人たち、(注61)そのいずれたるを問わず、アッラーを信じ、最後の審判の目を信じ、善行を積む人々は、主より必ず報奨を賜わらん。而して彼等には、恐ろしきこと悲しきこと起らざるべし。」(2:63)


イスラム教のことがよく分かる良サイトです。




テロの起点は宗教ではない
 テロリストの精神状態はある種の恍惚に包まれていると思われる。悪なる存在(政府、他宗教、他国、等)を打倒する為に命を懸け、安定や幸福とは無縁の人生観をもつ。
 そんな生き方を、銃や火薬だけでなく、宗教で武装する。自分は聖典の長大な歴史の中の一部であり、自分の行動はすべて神や天使の啓示によるもの、即ち聖なるものであると、心から信じることができる。常軌を逸する行為も、教典の解釈の変更により速やかに正当化される。
 テロリストのコーランを開いてみれば、きっと黒く塗りつぶされた箇所が無数にあるに違いない。彼らにとって、都合の悪い箇所が多すぎるからだ。


 人間が爆発的なエネルギーを放出し、常識を超えた行動を起こそうとするとき、宗教は効果的なツールになる。その行動が、創造的なものであれ、破壊的なものであれ。
 「創造」の例としては、ヒッピー時代に禅宗や般若心経に執心していたスティーヴ・ジョブズが有名。



宗教を盾にするテロリストの図

 ※あくまでも「テロリスト」を表現したものであり、アッラーを戯画化したものではありませんので、悪しからず。






2015年2月8日日曜日

「壁ドン」してほしい… ~焦燥の日本女性~

流行語の「壁ドン」が、2014年ユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選ばれた。

「壁ドン」は、ご存じのとおり「男性が女性を壁際に追い詰めて手を壁にドンと突く行為」である。
こうしたシチュエーションは、漫画やアニメで昔からよく使用されたもので、登場人物の男女関係を示す記号的役割を果たしてきたのだが、その行為自体に明確な名称がつけられていなかった。
2008年に声優の新谷良子が「萌えるシチュエーション」として「壁にドン」という言葉で紹介したのが初出と言われており、2014年にSNSを介して「壁ドン」として急速に広まった。

 皆がなんとなく気になってはいたが名無しだった概念に、名前が付くことは気持ちの良いことである。現在は、若い女性が中心となり、嬉々として新しく誕生した言葉「壁ドン」を活発に使い、その習熟度・認知度を向上させている段階である。 
「壁ドン」が流行したのには、下記のような社会的背景があると思う。

■社会的背景1:『女性活躍』というスローガン
 日本は国際的に見ても女性の社会進出が難しい社会である。そんな社会であるがゆえに、女性が価値を示すには、良い結婚をして、良い子供を産み育てることである、という旧来の価値が根強く残っている(ここでは旧来の価値の是非は置いておく)。
 そのような社会を変えようと、政府から「女性活用」「女性活躍」というスローガンが掲げられ、社会は概ねその方向に向かいつつある。しかし、多くの女性 は、まだ女性が活躍する社会をイメージできず、旧来的な価値を保持しており、出来ることなら家庭に入って、家庭を守りたいというマインドが未だ優勢のように見える。
「女性を労働力にしようとする政策」「心の準備が整っていない女性」との間にあるギャップが、今は大き過ぎる。故に女性にとって今の社会は、「本当は労働から逃れ、責任を負わされることのない安住の地でずっと穏やかに暮らしていたいのに、社会はそこから引きずり出そうとする」というストレスフルな状態なの だ。
 このような状態が、自分を支配し外界から守ってくれそうな「壁ドン」男性への憧憬を抱かせる一因となっていると思われる。
■社会的背景2:『草食系男子』の存在
 積極的に異性と関わろうとしない男性に『草食系男子』という名称が与えられ、当初は「男らしくない」という批判的なニュアンスで論じられることが多かっ た。だが今では、そういう人種が相当数存在し、おそらく漸増しているという事実が受け入れられ、草食系が存在してもよいという認識が広まった。そうして草食系も市民権を得るに至ったのである。近年では、無性的な人生を歩もうとする『絶食系男子』も注目されつつある。
 そこで困るのが女性である。女性は身体的構造からして、生殖行為の基本的態度は「受動」である。勿論、人間の女性は理性的な意思決定によって行動するが、 心理的にも、生物学的な雌としての影響を強く受ける。したがって、往々にして生殖の起点は、男からのアプローチなのである。(※あくまでも、心理学的な傾向であり、個人差はあります)
 にもかかわらず、草食系男子の登場により、生殖を実現するには、自らが「肉食系女子」となり、女性からアプローチしなければならなくなったのである。これは、一般的な女性には大きな心的ストレスである。
 このような社会において、「壁ドン」してくれるような積極的な男子は崇高で理想的な男性像なのである。
■社会的背景3:処女の増加
 「壁ドン」以前にも、理想の男性が女性を迎えに来てくれるイメージとして「白馬に乗った王子様」がある。他にも、グリム童話の「白雪姫」や「ラプンツェ ル」、さらにはスーパーマリオのピーチ姫など、姫が王子の登場を待ち望んでいるという原型的な心理が反映されたストーリーが多く存在する。
 「壁ドン」願望をもつ女性は、こうした物語における姫願望をもっていると見てよさそうだ。そして、そうしたメルヘンチックな姫願望をもつ傾向にあるのが、現実の性を知らない処女である。
 若者の性体験率は、2005年あたりをピークに現象を続けている。女子大学生に限ってみれば、2005年は61.1%だったが、2011年には46.8% にまで下がっている(財団法人日本性教育教会調べ)。(※ただし、今と昔では「大学生」の価値が異なること、2011年は震災があった特殊な年であったことという無視できないバイアスが含まれている)


 若い頃に機会を失えば、そのまま処女で居続ける女性の割合も多くなっていると予想できる。故に、「壁ドン」願望を持つ女性も増えるのだと考えられる。
 そもそも、この流行は処女かつサブカルチャーに親和性の高い『腐女子』が盛んに広めたものだとも考えられるが。


 以上をまとめてしまうと、「壁ドン」が流行ったのは、心の準備ができてないうちに女性を労働力にしようとする雰囲気が社会に立ち込め、女性に焦りが募る一方で、性欲旺盛な男性が減少し、性行為の機会をもてないまま、創作の世界の理想の男性像を強く求めた結果である。
 いずれにしろ、2015年には流行が終わり、普通の言葉としてそれなりに定着し続けることになるだろう。そして、日本の抱える性の問題が現状のままであれば、女性の不安や焦燥を背景とする別の新語が流行することになるのだろう。


教育の構造的改革 ~問題解決の為のある構想~

1.問題点まとめ

前回記した、日本の教育における構造的問題についてまとめる。


①教育の陳腐化
  • 社会は学歴を求めるが、学歴では実社会で必要な能力を測れないというギャップが生じている。
  • 教育課程で実践的な能力を身に着けることができない

②政府の教育投資の不備
  • 政府の教育投資は幼少段階高等教育段階足りておらず、個人が大きな負担を背負っている。
  • 政府の施策は、カリキュラムにコミットすることと、金銭的な支援くらいで、教育を取り巻く日本の社会構造自体に変化を及ぼすような改革は期待できなさそう

③教育コストの高騰
  • 教育コストが少子化の最大の要因である。
  • 親の教育への投資能力の差により、教育の質の格差、ひいては経済的格差が生まれている。


2.一つの提案


教育を取り巻くこれらの問題を根本的な解決のためには、社会構造そのものから見直さなければならない。

生命の社会化』のページで少しふれたが、国が子供を引き取り教育のコスト・質の保証を行わなければならないのではないかと考え、下記のような仕様の「国立教育センター(仮)」を構想してみた。

A.生活
  • 子供が生まれたら「国立教育センター(仮)」に預け、育児・教育を全て託す。
  • 子供は基本的に施設で生活するが、親とは自由に面会したり、ネットワークを介してコミュニケーションをとることができる。

B.カリキュラム
  • 心の発達において重要な時期である幼児期には、心理学的に適切な母性・父性、刺激、体験を与える。(学術的に正しく、バラつきのない方法に基づくことが重要。一般家庭でもこの段階で失敗しているケースが多く見受けられ、これは子供本人にも社会にも多大な損害を与える)
  • 基本的な教育方針は、全ての日本人をグローバル社会で活躍でき、事業を起こす能力をもつ人材とすること。
  • 英語、プレゼン力、経営学、ICTは必須。さらに、ロジカルシンキング、心理学も学ぶと望ましい。教育の後期には、実践的な職務遂行能力、組織運営・経営のノウハウを実地で学ぶ。
  • 基本的な教育カリキュラムは行政の綿密なプログラムに従って作成され、実行される。
  • 教育方針には、ある程度の選択肢があり、本人や親が選ぶことができる。
  • 親が育成により強く介入したい場合は、後述する「子ども債」を購入することで、オーナーシップを向上させ、教育にオプションをつけるなど、口を出すことができる。
  • 大学相当の教育まで実施の上、就職・起業支援まで行う。




 C.教育コスト

 この仕組みを運営するには莫大な資金が必要である。税金だけでは賄えない。そこで、下記のような仕組みを考えた。

  • コストは国が一旦負担する。国が債権者として債権を保有し、子供本人が債務を負う。
  • この債権を「子ども債」と名付ける。(日本社会は、子どもを中心に物事を考える為、既存の国債とは別に取り扱う方が資金を集めることができると思う)
  • この「子ども債」は、親だけでなく他人も購入することができる。
  • 本人が仕事を始め所得が発生するようになったら、所得税で債務を返済する
  • 返済し終わったら、税率が下がる。
  • 引き続き支払い続ける税は、債券保有者への配当や次世代のために使われる(貸し倒れもこれで充当)。次世代に負の遺産は残さない。
副次的効果として、親も自分のキャリアや自己実現を諦 めなくて済む効果がある。子供が生まれると、その時点から保守的な人生を歩まねばならないと考えてしまう傾向がある。しかし、子供を産んでも膨大なコスト を支払う必要もなく、教育方針に悩まされることもないのであれば、人の親になっても個人として生きることができる。逆に言えば、子供を理由に挑戦しないと いう選択は出来なくなる。




   
 この手法は、「子供と教育は未来への投資」であるという考えに基づく。これは綺麗ごとでも何でもない。子供を産むことは、会社に例えれば、「新事 業の立ち上げ」であり、教育はその事業へのリソース投入やコンサルティングに当たる。新事業を上手く成長させることができれば、新たな収益の柱となり、即ち家族を支える存在となる。
 しかし、今の日本は十分な資本を持つ者でなければ、「子供」という新事業を立ち上げることはできない(資本がなければ、その名の通り「問題児」の事業になる)。
 この状態に対するブレイクスルーは、「ベンチャー・キャピタル」や「クラウドファンディング」である。つまり、子供への投資をオープンに募るのだ。
 同時に、債権者は教育に対して強くコミットし、子供を稼げる人材に成長させようという力が働く。債権者の意思を汲み、教育を改善するのが、子供を親から買収した「国立教育センター(仮)」である。

 最近流行のピケティによれば、日本の所得上位10%の人々の資産が日本の総資産に占める割合は、48.5%にも達する(欧米に比べればまだマシだが…)。つまり、日本の富の半分は上位10%お金持ちが独占している。そのだぶついた 富が向かう先は金融商品あるいは不動産である。
 この投資の流れを少しでも、次世代の「人」へ向ける為に、上述の「子ども債」のようなものが必要ではないか。格差の是正方法は、お金持ちから収奪することだけではないと信じている。但し、投資である以上、一定の利回りを期待できるものにしなければ、投資家の目を引くことは出来ない。
 次世代の「人」に投資すればするほど投資家が儲かり、日本社会の教育格差そして経済的格差が是正される。そんなシステムになるのではないだろうか。
 



教育の構造的改革 ~教育の構造的問題~

1.背景

 一般論だが、多くの人は、他の子供と自分の子供を差別化し社会的に優位な地位に立たせたいと考える。日本において個人の優位性を示すには、アイデンティティ を示すのではなく、社会で共有されている指標に対して、自分がどれくらいのレベルであるか示すことが重視される。その指標の典型が「学歴」となっているの が現状だ。
 教育の本来の目的は、社会の中で大きな価値を生み出せるようになること、世界を知り人生の選択肢を狭めないこと、学びの習慣を身に着けること、精神的な成長を促進し心を豊かにすること、といったことだろう。

  教育コストと格差の問題もある。高額なコストを支払えば、有名私大付属の幼稚園や小学校に入れることができる。そうして受験のストレスを回避しつつ、社会 的地位の保証を購入することができる。私立校は集まった資金で教育の質を高め、またそこに人とカネが集まるという循環ができる。
  一方、多額のコストを支払うことができない家庭の子は、公立校の貧弱な教育を受けることになる。有名な大学に入るためには、学校外の教育サービス(塾な ど)を利用して勉強することになる。近年ネットを活用した教育サービスが増加し、教育が民主化されつつあるが、ここでも相応のコストが必要になる。

 そもそも、教育が学歴を得るためのもの、テストの点数を取るためのものに成り果てており、自己目的化している。点数稼ぎの教育は唯の記憶行為であり、学びではない。教育に多大な時間とコストを費やした筈なのに、教育課程で学ぶ事柄と実社会で求められる能力には乖離がある為、社会に出ても何の役にも立たない。
 教育は国家の戦力となる人材を育てるという社会的な側面もあるが、それだけではなく、個人が「知」という武器を手に入れ、出自や性別などに関わらず行動や職業を選択できるようするものだった筈だ。


2.家計の教育支出

文部科学省のホームページによれば、下記の通りだ。


  • 大学卒業までにかかる平均的な教育費は、全て国公立でも約1,000万円、全て私学だと約2,300万円に上る。
  • 子供1人が大学生になった段階での家計の貯蓄率は、-10.4%である。(負債を負っている)
  • アンケートによれば、教育費の高さは少子化の最も大きな要因の一つ。


 文部科学省は予算が欲しいため、家計に教育の負担をかけすぎているとアピールしたい面もあるだろうが、この内容は一般の感覚とそれほどかけ離れていないだろう。

 3.教育への政府の投資
  政府も何もしていないわけではないが、教育への投資は量的に十分だろうか。それは正しい方向に向けられているだろうか。
 次の図は、日本のGDP比の対高齢者向け支出と対家族・子供向け支出を「1」として、他のoecd加盟国と比較したものである。超高齢化の日本とそうでない国を正しく比較する為、少子高齢化の影響を調整してある。






  図中の点線より左の国は日本以上に高齢者に支出しており、右の国は日本よりも次世代のために多く支出していることになる。日本よりも高齢者に多くの支出を費やしている国は、アメリカと韓国しかない。
  多数決の原理に従う民主主義の下では、与党・政府は若者世代ではなく、高齢者に耳を傾けざるを得ない状況であることが読み取れる。政治家自身が中高年であ ることも高齢者への共感を過度に高めている可能性もある。また、世界的に見ても日本人は投資が下手であるということも影響しているかもしれない。
 日本以上に苛烈な受験戦争と学歴格差が生まれ、少子化が進んでいる韓国が、このような結果になっているのは納得できる気がする。恋愛・結婚・出産を放棄しなければならない今の韓国の若者は、一部では「三放世代」と呼ばれている。若者世代への支出が少ないことも影響していそうだ。(そもそも全ての国民に対する支出規模が小さい、国民に厳しい国であることも読み取れる。現状は、政治に失敗している韓国政府への国民のフラストレーションを日本が請け負っている側面もある)
 日本は韓国を反面教師にしなければならない。



日本政府の教育白書もざっと目を通してみた。

「学びのセーフティネット構築」という言葉から、どのような貧困家庭でも、高度な教育が受けられるようにする仕組みなのかと期待した。しかし、金銭的な支援と防災の話に終始しており、全ての人が高いレベルの教育を受けられるインフラを整備する構想ではない。あくまでも、ハコモノに軸足を置いたものだ。

各教育段階のどこに投資が不足しているかは、このサイトがよくまとまっている。簡単にまとめると、下記の通りだ。

  • 義務教育以前と高等教育の段階で投資が足りていない。(小中学校は足りている)
  • 不利な経済状況にある家庭の児童は小学校入学時点で既に、豊かな家庭出身の児童に学力差をつけられている。
  • それがその後の低学力・低学歴へとつながり、大人になって再び不利な社会経済状況に立たされる
  • 貧困の連鎖を断ち切る事を考えた場合、就学前教育は非常に重要になってくる。


次回は、教育に関するこれらの構造的問題に対処する為の私の考えをまとめる。


生命の社会化シリーズまとめ



生命の社会化 ~子供は社会が育てるもの~

 日本でパックスや事実婚を広め、気軽に子供を産めるようにするのもいいのだが、夫婦間の拘束力が弱まるため必然的に片親の子供が増加することが予想される(フランスの婚姻とパックスと事実婚の離婚率の統計があればよかったが、探し出すことができなかった)。
 どのような家庭でも一定水準の養育・教育を享受できるシステム(セーフティネット)がなければ、いたずらに貧困家庭を増やすことになってしまうだろう。堅牢な婚姻制度は、「育児システムとしての家族」の形状を安定させるための装置でもあるのだ。

  昔のように祖父母が育児に協力してくれれば、若い夫婦がガンガン働いて稼ぐことができるのだが、祖父母が協力してくれない、あるいは、そのような環境にないほとんどの核家族は、特に母親が育児に体力と時間を費やしてしまい、まともに働くことは出来ない。行政サービスはキャパシティオーバーだし、民間サービスは高額である。核家族は、生産性の高い若いうちに、資産を増やすことができず、運が悪ければ高コストな民間サービスに頼らなければならない。祖父母が育児に参加するかどうかで、大きな格差が生まれるのである。
 社会的には、父母だけが「働け。そして育児もしろ!」と責め立てられがちだが、一族の資産を増やしたければ祖父母も育児に参加すべきということを、高齢者たちには自覚してほしいし、祖父母に子を託すことに遠慮は要らないという社会的な共通認識が醸成されるべきだと思う

  しかし、現実的な問題として、物理的な距離の問題や、人間関係の問題で、祖父母と協力しながら育児のできない夫婦も多く存在する。都市部に住んでいる夫婦が、田舎から祖父母を呼び寄せるなど考えにくい。普通は一緒に住みたくないし、祖父母の住宅を別に用意する金銭的な余裕はない。

 ならば、「子供は社会で育てる」という認識の下で、国家的に養育・教育システムを組むことはできないだろうか。簡単に言えば、国が子供を完全に引き取って、養育・教育するのだ。そうすれば、親の責任や金銭的負担を軽減させることができる。更には、そもそも婚姻に頼らずとも子供を作りやすい社会になるのではないだろうか。
 考え方を下図に示す。





 悪く言えば、国が親から子供を取り上げてしまっているようだが、良く言えば、日本人として生まれた生命を漏れなく社会全体で支えるおせっかいなほど手厚いシステムと言える。
 昔は、コミュニティ全体で子供の面倒を見ていたとよく言うが、その延長として捉えてもらいたい。『日本村』といった風情だ。
 ここまでドラスティックな政策を打ち出せば、国民のマインドは変化し、安心して子供を産める国になるのではないか。この仕組みの詳細は別のページで説明する。